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第七話

 鼻腔を刺す匂いが濃くなるにつれ、空気は重くなっていった。鉄を削って煮詰めたような、どろりとした気配が風に混じり、喉の奥に広がっていく。苔や湿土の青臭さには慣れてきたはずの体が、この匂いだけは拒絶しようと震えた。


 茂みを押し分けると、そこにあったのは巨大な猪の死骸だった。丸太のような脚は力なく投げ出され、裂けた腹から臓腑が零れ落ちている。地面は黒い血で濡れ、まだ湯気が立ちのぼっていた。日差しを反射した血溜まりが、どろりと光を瞬かせる。


 その死骸に群がる影――狼。灰色の毛並みを逆立て、肩を寄せ合いながら牙を突き立てていた。肉を引き裂く湿った音、骨が砕ける乾いた響き。口元を濡らした血が滴り、草を赤黒く染めていく。


(これは……ゲームじゃないよなぁ)


 ジンガは息を呑む。匂いも音も、あまりに生々しすぎた。


(こんなのが仮想世界なわけない……)


 もしこれが作り物なら、到底許される表現じゃない。そう考えれば考えるほど、現実だという答えに行き着いてしまう。


 一頭の狼が耳を立て、こちらを向いた。赤く濡れた口元から、低い唸り声。次の瞬間、群れ全体の視線が一斉にジンガへ突き刺さる。


 空気が張りつめ、草のざわめきすら止んだように感じられた。牙の擦れる音が重なり、足元の土がわずかに震える。緊張は極限に達し――弾けた。


 狼たちが散開し、一斉に襲いかかってきた。前方から一頭が跳びかかり、牙を剥く。反射的に拳を繰り出す。篭手に走った衝撃が反転し、骨を砕く手応えとともに狼の体が宙を舞った。土を抉って転がり、乾いた呻きとともに地面を滑る。土埃が舞い、血の匂いがさらに濃くなる。


 《静寂の戦靴》が踏み込みを支え、膝から伝わる力が獣を弾き飛ばす。狼の息が潰れたような声を上げ、血飛沫が散った。飛び散った赤が草に点々と広がり、唸り声がさらに低く重くなる。


(……俺、思ったよりやれるな)


 そう思った刹那、右の茂みから別の影。気づくのがわずかに遅れた。爪が頬を掠め、熱が走る。視界の端に赤が滲んだ。


(……危なかった。気を抜いたら、一瞬でやられる)


 呼吸を荒げ、歯を食いしばる。拳を握り直し、迫る二頭を正面から迎え撃つ。打撃が肉を叩く鈍い音を響かせ、狼の体が跳ねるたびに血と毛が散る。呻き声を残して沈む影。土の上に赤黒い染みが広がり、匂いがさらに濃くなっていった。


 やがて残った数頭は怯えたように唸り、尾を巻いて森の奥へと姿を消していった。


 静けさが戻ると同時に、血の匂いは一層濃くなった。鼻腔を刺すその重さが、喉を焼き、胃の奥を揺らす。倒れた狼と猪の死骸が目に入り、赤黒い染みが土を覆っていた。


 ジンガは顔を背けた。胸の奥がきしみ、吐き気が込み上げる。足が勝手に後ずさる。


(……きつい。近くにいるだけで、頭がくらくらする)


 無意識に頬へ手をやった。爪に裂かれたはずの場所は、もう滑らかで、血の跡だけが薄く残っている。痛みも、ほとんど感じなかった。


(……治ってる。ついさっき切られたばかりなのに……)


 吐き気で揺らぐ胸の奥に、別の実感がじわりと重なる。自分の身体は、普通のそれとは違う――その事実が静かに主張していた。


 それでも、腹の奥が小さく鳴った。大きな音ではないのに、静寂の中ではやけに響いた。喉が乾いているわけではない。だが、身体の芯が訴えてくる。


(……でも、食べなきゃだよなぁ)


 仮想世界なら、こんなことを考える必要はなかった。

 けれど、この大地はどう見ても現実だ。


 理屈ではわかっている。だが心は追いつかない。獣を狩るのは初めてで、吐き気と空腹がせめぎ合い、胸の奥で渦を巻いていた。


 視線を逸らそうとしても、裂けた猪の腹が目に入ってしまう。温かな湯気が立ちのぼり、匂いが風に乗って押し寄せる。


(……はあ、がんばるか)


 震える息を吐いた。覚悟はまだできていない。けれど、逃れられないことだけははっきりしていた。


 見上げれば、枝葉の隙間を縫う光は橙に傾き、森の奥が少しずつ群青へと沈んでいく。影は長く伸び、風は冷たさを増していた。やがて訪れる闇を思えば、火を求める気持ちは避けられなかった。


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