第五話
草を踏むたび、靴底に硬い茎がしなる感触が伝わる。
芝はまだ朝露を含んでいて、わずかに湿り気を帯びていた。
陽光に照らされた草は淡い緑と濃い緑がまだらに重なり、風が吹くたびに大きな波のように揺れる。
吹きつける風は草の匂いを運び、舌の奥にかすかな苦味を残した。
遠くで小鳥の声が響き、青空を滑るように雲が流れていく。
ジンガは歩きながら、深く息を吸い込んだ。
胸の奥まで冷たさが浸みて、心地よく熱を溶かしていく。
これほど澄んだ空気を味わったのは、いつぶりだろう。思い出せないほど遠い。
(……本当に、現実なんだな)
そう確かめるたびに、不思議な高揚と小さな恐れが胸に芽生える。
けれど足は止まらなかった。立ち止まっていても、何も変わらないと知っていたからだ。
見渡せば大半は芝のように低い草原だった。
けれどところどころに、膝や腰の高さまで伸びた草が群れている場所がある。
風が吹くたび、その一角だけ濃い影が揺れ、草の先端が触れ合ってざわめいた。
整った庭の芝とは違う、野生の不揃いさがそこにあった。
その茂みのひとつから、小さな影が飛び出した。
羽毛をきらめかせる小鳥のような生き物が、草の海を割るように舞い上がる。
翼が草をかすめ、ざわりと音を立てた。
空へ消えていくその姿は、ゲームでよく見た「背景のモンスター」に似ていた。だが今目にしたそれは、確かに生きている。
(倒す敵じゃない。ただ……ここに生きている)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
さらに進むと、道端に紫の花が群れて咲いていた。
花弁は薄く透けるようで、朝露を湛えた滴が光を屈折させ、虹のかけらのように瞬く。
茎はしなやかに風を受け、葉脈に沿って細かな陰影が浮かんでいる。
ジンガはしゃがみこみ、指先でそっと触れた。
柔らかな感触と、微かに甘い匂いが返ってきて、思わず息をつく。
「……きれいだな」
声は草原に吸い込まれ、すぐに風に溶けて消える。
返事はない。けれど孤独ではなかった。
世界そのものが静かに答えてくれている――そんな気がした。
やがて緑の帯が近づいてくる。
遠目にはただの壁のように見えた木々が、今は一本一本の幹をはっきりと主張している。
樹皮には縦に深い亀裂が走り、苔がまだらに貼り付いていた。
鳥の声は少なくなり、その代わりに枝葉が擦れ合うざわめきや、小さな生き物の足音が耳に届き始める。
静けさと気配が折り重なり、空気が確かに変わっていた。
立ち止まると、薄暗い影が口を開けて待っているように見えた。
その奥から流れ出す冷たい空気は、草原とはまったく違う匂いを運んでくる。
樹皮の渋みや苔の青さが混じり合い、胸いっぱいに広がった。
(……すごい。久しぶりに森の匂いを嗅いだな)
忘れていたはずの林の景色が、懐かしさとともに胸に蘇る。
落ち葉を踏んだときの乾いた音。木漏れ日の揺らめき。
遠ざかっていたはずの感覚が、今はこうして手の届く場所に戻ってきている。
胸のざわめきはもう、不安だけではなかった。
未知の世界を前にして、昂ぶりが静かに広がっていく。
「……行ってみよう」
更なる一歩を踏み出した。
冷えた匂いとざわめきが渦を巻き、全身を包み込む。
光と影の境がほどけ、湿り気を帯びた空気が胸の奥へと流れ込んできた。
置き去りにしていた感覚が脈を打ち、胸の奥を震わせる。
湿った土の香り、枝葉のざわめき、小さな生き物の気配。
それらが幾重にも重なり、期待をさらに大きくしていった。




