第四話
しばしの間、彼はただ景色に身を浸していた。
頬を撫でる風。草原は果てなく広がり、陽光を受けて一面が揺れている。
雲はゆるやかに流れ、遠くで鳥の声がかすかに響いた。
それはかつて確かに知っていた感覚だった。けれど、あまりに長い時間を経てしまったせいで、いつの間にか遠い夢の中の出来事のように変わっていた。
失ったと思っていたものが、今はこうして自分の中に戻ってきている。
懐かしさと、どこか現実離れした異物感が入り混じり、胸の奥は落ち着かない。
(……ああ、見とれてたな)
あまりにも心地よくて、時間を忘れてしまうところだった。
気がついたときには、意識が青空に吸い込まれていた。
けれど、浸り続けても答えは出ない。
ジンガは小さく息を吐き、意識を現実へと引き戻す。
立ち止まっているだけでは、何も始まらない。
――これは現実なのか、それともゲームの異常なのか。
答えは出なかった。だが、ひとつだけ確かなことがある。
この手足。この身体の感覚。
自分が確かにここに立ち、生きているという事実だけは否定できなかった。
視線を落とすと、半透明のメニューウィンドウが静かに浮かんでいた。
さきほど開いたままにしていたそれは、まるで続きを促すように待機している。
ジンガは迷わず《装備》の項目を選んだ。
瞬間、アバターの全身像が中央に投影される。
髪はダークグレー。光を受けてわずかに濃淡が揺れ、整いすぎない自然な流れで額を覆っている。
瞳は深い黒。鏡面のように光を反射し、その奥に微かな輝きを沈めていた。
体つきは十八歳ほどの均整を備え、現実ではとうの昔に失ってしまった健全さを、今は確かに身にまとっていた。
(……相変わらず、健康そうな身体だな)
思わず苦笑する。
頭部スロットに触れると、淡い光が弾けた。
【頭部装備】《星幽の兜巾》
効果:暗闇視覚補助/精神干渉耐性
闇色の布が頭を覆い、顔の輪郭を影に沈めていた。
視界に星が瞬き、周囲の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
次に胴部。
【胴部装備】《深紺の魔導衣》
効果:物理・魔法耐性上昇/衝撃分散/精神集中補助
胸元の紋様が脈打ち、冷たい力が全身を包み込む。
腕部を選ぶ。
【腕部装備】《護命の篭手》
効果:衝撃反射/威力上乗せ
両腕を合わせると赤い閃光が弾け、衝撃が掌に収束する。
脚部のスロットに触れる。
【脚部装備】《静寂の戦靴》
効果:足音消去/奇襲命中補助
一歩踏み出すと、芝を裂く音が吸い込まれた。
補助スロットには二つの光が灯っていた。
【補助装備】《蒼晶のイヤリング》
効果:魔力循環補助/MP自然回復速度上昇
左耳で小さな蒼結晶が揺れ、魔力の流れを静かに整えていく。
【補助装備】《癒光のイヤリング》
効果:自然治癒促進/軽傷回復
右耳に輝く金色の宝石が淡く光を放ち、静かな温もりをまとわせている。
ふたつの武器スロットは空白のままだった。
それでも、十分だった。両手とこの装備があれば、前に進める。
ジンガはゆっくり息を吐き、ウィンドウを閉じた。
(夢……なのか?)
一瞬そんな疑いが浮かんだ。けれどすぐに否定する。
これほど鮮やかで、生きている実感に満ちているのなら、夢であってほしくない。
もし現実なら、この身体で誰かを助けられるかもしれない。
優しい人間になりたいと願った自分が、本当にそう在れるかもしれないのだから。
視線を上げる。
地平の先に濃い緑が帯のように連なっていた。森だ。
(……懐かしいな)
幼いころに歩いた林道を思い出す。
落ち葉を踏んだときの乾いた音や、手に握った枝の感触が蘇った。
当時はただの退屈な景色だと思っていたのに、今は胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
こんなふうに自然を懐かしく思えるなんて、自分でも意外だった。
風が髪を揺らし、草の海がざわめきを返す。
人の気配はなく、静けさだけが広がっている。
その静けさは寂しさを含んでいたが、不思議と背中を押してもくれた。
(ここで立ち止まっていても、何も変わらない)
「……行くか」
小さく呟いた。それはまるで、自分自身にも言い聞かせているようだった。
森へ向かって一歩を踏み出した。
それは、ジンガの冒険の始まりを告げる一歩だった。




