第三話
まぶたを開いた瞬間、光の余韻が視界を焼いた。
やがてそれが収まると、広がっていたのは見渡す限りの草原だった。青空はどこまでも澄み渡り、風が頬を撫で、木々の葉を揺らす。足元に根を張る大地は、かすかに温もりを帯びている。
ジンガは無意識に息を呑んだ。
ゲームで見慣れた描画処理の風景ではない。空気に混じる土と草の匂いは濃く、喉の奥に生々しく残る。指先に触れる草は細い繊毛まで質感を伝え、踏みしめる音さえ耳に痛いほど鮮烈だった。
(……こんなエリア、見たことがない)
ログアウト後に戻るはずの自室ではない。ましてや、ワールド・クロス・オンラインの大地でもダンジョンでも街でもない。
見上げた空には、人工の粒子も処理落ちの光も存在しなかった。あるのは、一切の虚構を許さない“現実めいた”空だけだ。
状況を確かめるため、ジンガは念じるように言葉を落とす。
「メニュー」
視界の端で淡い光が走り、半透明のウィンドウが展開された。
横並びに五つの大項目が浮かぶ。
《ステータス》 《所持品》 《装備》 《マップ》 《システム》
この世界を支えてきた基本構造。見慣れたはずの文字列が、今はどこか異質に見えた。
ジンガはまずマップを開く。
広がった画面に、奇妙な表示が浮かぶ。
《現在位置:不明領域》
《データベースとの同期に失敗しました》
白紙のキャンバスに彼のマーカーだけが点滅している。世界地図は読み込まれず、拡大縮小も効かない。告げられるのは「未知にいる」という事実のみ。
(……バグか?)
一番手っ取り早い説明だ。だが確信は持てない。
匂いも感触も、これまでのゲームでは再現できなかった濃度で迫ってくる。草を踏む音も、風の揺らぎも、あまりに鮮烈だ。
かといって、即座に「現実」と断じることもできない。視界には確かにシステムウィンドウが存在している。
彼は眉を寄せ、ステータスを開いた。光のウィンドウに文字列が滑り出す。
《名称:ジンガ》
《種族:人間族》
《クラス:アルケナリウス》
《レベル:――》
《称号:創世を討伐せし者》
《HP:高水準》
《MP:極大》
《状態:健康》
《肉体同期:アバター形態》
ジンガはゆっくり息を吐いた。
項目こそ並ぶが、かつてのような明快な数値はない。HPは「高水準」、MPは「極大」と曖昧に置き換わり、レベル欄には虚ろな破線だけが残っている。999で止まっていたはずの数字は、痕跡ごと消え失せていた。
称号もひとつだけ。
画面を埋め尽くしていたはずの称号群は消え、「創世を討伐せし者」だけが残る。削ぎ落とされた静けさが、かえって不気味さを際立たせた。
視線をさらったのは「肉体同期」という見慣れぬ項目だ。
ジンガは無意識に手を開き、指を動かす。画面の数値は沈黙したまま。だが筋肉の収縮、皮膚の緊張、血の巡りが鮮やかに返ってくる。
(……確かに“ある”。だが、これは……)
現実では得られなかった鮮烈な手応えが、指先から脳へ伝わる。握力の微調整すら自在で、その重みは確かな実感を伴っていた。
けれど、それが「本物の身体」なのか、極限まで作り込まれた仮想の錯覚なのか――答えは出ない。
数値が曖昧になるほど、肉体の感覚は濃くなる。
その落差が、不安と期待をないまぜに胸へ刻みつけた。
ジンガは所持品タブを開く。
見慣れたリストが整然と並んだ。
《ポーション×3》
《エーテル瓶×2》
《術式書〈アルケナリウス・コーデックス〉》
《召喚核〈光素〉》
《世界樹の鱗片》
《薬草束》
ポーションの欄に指先で触れる。
腰の袋が小さく震え、冷たい硝子瓶が掌に転がり落ちた。淡い赤の液体が陽光に煌めき、重みが指の間へ食い込む。
(……現物化している?)
コルクの感触まで鮮明だ。
これまでは自動で飲用され、数値が変化するだけだった。今は、自分の手で栓を抜き、喉を通す必要がある。
瓶を軽く振って液面の波紋を確かめ、慎重に袋へ戻す。
リストの数は一つ減り、収納し直すと再び「×3」へ戻った。
(……仕組み自体は、大枠では同じか)
呟きながらも、眉間の皺は消えない。
最後にシステムタブを開く。
本来なら最下段にある《ログアウト》の文字が、どこにもなかった。
《接続エラー:不明領域》
《サーバ同期不可》
灰色の文字列が画面を埋め、押せる項目はひとつもない。
「……まじかよ」
思わずこぼれた。
安全圏へ退く最後の手段が、きれいさっぱり消えている。画面を閉じては開き、隠し項目を探すように指を走らせても、結果は変わらなかった。
(本当に、ないのか)
現実味のない状況に、ため息が漏れる。
胸の奥で軽い焦りが膨らむ一方で、妙な諦観も生まれていた。これがただのバグならそのうち修正される。だが――もしそうでなければ。
ジンガは草原を見渡し、深く息を吐いた。
(……参ったな)
わずかに口元を歪め、空を仰ぐ。
言葉の代わりに、その表情がすべてを物語っていた。
ログアウトはできず、マップは白紙のまま。
異常だと理解しても、答えは見つからない。
それでも、頬を撫でる風と大地の匂いは、どこまでも鮮やかだった。
まるで未知の世界そのものが、「こちらを見よ」と囁いているかのように。




