第二十三話
火球の光をかき消した闇の中で、怒号のような呻きが渦を巻いた。
縫い止められていた影が鎖を軋ませ、裂けるように揺れる。
青白い光点は目のように爛々と震え、理性を失った怨嗟だけを放っていた。
『アアアアア――ッ!』
圧縮された冷気が爆ぜ、ジンガの頬を切り裂くように吹き付ける。
水路全体が共鳴し、苔も石壁もざわめいた。
「《テレポート》」
一瞬の閃光とともに、ジンガの姿が掻き消える。
次に現れたのは、暴れる影の背後だった。
「《ホーリー・フレイム》」
掌に宿った白銀の火が轟と燃え上がる。
炎ではなく光そのもののような輝きが闇を裂き、影の輪郭を焼き付けた。
『――ッァアアアア!』
影が悲鳴を上げ、青白い光点が激しく揺れる。
聖なる火に包まれ、濃く淀んでいた闇が少しずつ削がれていった。
「……悪い。救えなかった」
呟きは闇に溶け、胸の奥を針のような痛みが刺す。
だが、影の苦しみを長引かせる意味はない。
「《イグニッション》」
続いた詠唱に応じて、《ホーリー・フレイム》が一気に火力を増す。
白銀の光が爆ぜ、水面が熱に震えて細かな泡を散らした。
残ったのは、冷気ではなく、かすかな囁き。
『……こど……の……な……ま…』
『……カレ……ン……』
それは声というより、残響に過ぎなかった。
けれど確かに、耳ではなく心へ突き刺さる。
ジンガは拳を握り締める。
(……カレン、か……)
胸の奥に痛みを抱えたまま、彼は深く息を吐いた。
「《フレイム》」
再び呟くと、掌に炎が生まれ、暗闇を押し返した。
「エリシア様……大丈夫か?」
片膝をつき、動けなくなった少女の目線に合わせる。
揺れる火の光が彼女の顔を照らし、汗と蒼白な頬を浮かび上がらせた。
「……だ……大丈夫……です」
かすれた声がようやく返ってきた。
震える吐息とともに零れたその言葉は、力強さとは程遠く、それでも気丈さを保とうとする響きだった。
「……外に出よう」
ジンガはそう告げ、震えるエリシアの体をそっと抱き上げた。
力の抜けた肩が腕に預けられ、かすかな震えが直に伝わってくる。
揺れる炎の光が、彼女の蒼白な頬を淡く照らしていた。
暗い水路を後にし、重い鉄格子を押し開ける。
次の瞬間――
冷たい夜風と、澄んだ空気が一気に流れ込んできた。
湿り気に沈んでいた身体を解き放つように、夜の街の匂いが肺を満たす。
ジンガは腕に抱いたエリシアの重みを感じながら、ゆっくりと地上へと歩み出た。
「ジンガ様……ありがとうございます。もう、大丈夫です。歩けます」
エリシアは地面に足をつけ、ゆっくりと体を支えた。
空にはすでに月が昇り、街並みには灯火が点り始めていた。
夜の闇の中で、かすかな明かりが彼女の横顔をやわらかに照らしていた。
「一つ、聞いてもいいかな?」
「……なんでしょう?」
まだ体を支えたままのエリシアが、かすかに首を傾ける。
「この街の周辺地理がわかる場所はないか?」
ジンガの問いに、エリシアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
戦うことも動くこともできなかったが、あの声だけは確かに耳に届いていた。
「……“ミルダ”という名は、古い水路の支流にあります。
街の外郭から地下に伸びていて……下層の端は、人通りもなくて……」
かすれた声は弱々しかったが、告げられる言葉には確かな知識があった。
「遠いのか?」
ジンガの問いに、エリシアは小さく首を横に振った。
「……街の端までなら、それほど距離はありません。
ただ、地下の下層へ入ると道は複雑で、足を踏み入れる人もほとんどいないのです」
声はまだかすれていたが、言葉には落ち着きが宿っていた。
知識を語るときの彼女の表情は、先ほどまでの怯えを払うように凛としていた。
(……このまま彼女を連れ回すのは、やめておいた方がいい)
疲労も恐怖も、まだ完全には抜けていない。
まずは屋敷へ戻し、休ませるべきだ――ジンガはそう結論づけた。
「帰ろうか」
「えっ!?」
エリシアは思わず目を見開いた。
てっきり今から“ミルダ”へ向かうのだと思っていたからだ。
「あの影は……前からあそこにいたんだろ。
なら、子供はその"ミルダ"って場所にはいないか……あるいは、すでに……」
ジンガは短く息を吐き、言葉を結んだ。
「だから、急いで向かう必要はない」
「でも……」
エリシアの唇が震え、抗いの言葉を探した。
けれどすぐに瞳を伏せ、小さく首を振る。
「……はい。わかりました」
ジンガを案内すること以外に、自分は何一つ役に立てなかった。
だから、意見を口にする権利すらないのだ――そう思った。
それ以上、ジンガは何も言わなかった。
ただ一歩を踏み出し、屋敷へ続く道を歩き出す。
エリシアも黙ってその背に従った。
月明かりと街の灯火だけが二人の足元を照らし、夜気の中に小さな影を並べていた。




