第十八話
ジンガはすぐに立ち上がり、目線を合わせた。
「私、辺境の出身でして。あなたはいったい?」
いつも以上に丁寧な口調を心掛けて、声を発した。
エリシアの面影が、その男の姿に重なった。
整った金の髪、品のある立ち居振る舞い。纏う空気からして、ただの来客ではないことは明らかだった。
恐らく――いや、間違いなく彼女の父だろう。
「名乗ろう。私はアドリアン・オルフェール。オルフェール家の当主にして、この屋敷の主だ」
男は落ち着いた声音でそう告げる。瞳は鋼のように冷ややかだが、言葉には礼が通っていた。
アドリアンが差し出した手を、ジンガも握り返す。
「まずは礼を言わねばならない。……娘を救ってくれたと聞いた。ジンガ殿、深く感謝する」
「とんでもございません。子供の命を守るのは、大人の責務でございます」
ジンガは視線を逸らさず、静かに答えた。
「……責務、か」
アドリアンは短く言葉を繰り返す。瞳にわずかな光が宿り、口元がかすかに動いた。
「興味深い考え方だ。だが確かに、その一言に尽きるのかもしれんな」
落ち着いた声に、ほんのわずかだが温度が加わった。
「立たせてしまってすまない。
よろしければ、同席をお許しいただけるかな」
アドリアンは、先ほどまでジンガが腰掛けていた席の隣へ手のひらを差し向けた。
「私は客人の身ですから、お気遣いなく」
そう答えたジンガは、アドリアンが隣に腰を下ろすのを見届けてから、自らも先ほどの席へと腰を下ろした。
二人が席についたところで、広間の扉が静かに開いた。
侍女たちが列をなし、銀の盆を手に食堂へと入ってくる。
香ばしい焼きたてのパンの匂い、温かなスープの湯気、果実を盛った皿の鮮やかな色合いが、荘厳な空気に生活の温度を与えていった。
皿が卓に置かれるたび、広間の静けさを破るのは陶器のかすかな音だけ。
その背後、扉口に小柄な影が現れた。
「お父様、ジンガ様」
振り返ったジンガの視界に、エリシア・オルフェールが姿を見せた。
白を基調とした衣に身を包み、昨夜よりも血色はよい。
彼女は父のもとへ進むより先に、卓に着いたジンガへと一礼した。
「ジンガ様、おはようございます」
ジンガも軽く頷き返す。
「おはよう、エリシア。顔色が戻ったな」
エリシアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
その後、彼女は父のもとへと歩み寄り、深く頭を垂れた。
「お父様、おはようございます」
貴族の子女らしい、美しい所作であった。
アドリアンは短く頷き、隣の席を示す。
「座りなさい」
「はい」
エリシアは静かに腰を下ろし、三人がようやく食卓にそろった。
ちょうどそのとき、侍女たちが最後の料理を卓へと並べ終えた。
白い皿に盛られた温かなスープからは湯気が立ちのぼり、香草の匂いがほのかに漂う。
焼きたてのパンは黄金色の焦げ目をつけ、果実を盛った皿は赤や橙の彩りを添えていた。
銀の器に反射した光がきらめき、荘厳な広間にささやかな温かみを与える。
侍女たちは一礼し、音もなく後方へ下がっていく。
広間には三人と、食卓に並ぶ料理だけが残された。
「……さて」
アドリアンはゆるやかに姿勢を正し、卓上を一瞥した。
「せっかく用意させた朝食だ。どうか遠慮せず口にしてほしい」
少し遅い朝食の時間が始まった。
「ありがとうございます。ありがたく頂戴します」
ジンガはそう答え、銀色のカトラリーに手を伸ばした。
アドリアンは娘に目をやり、軽く頷く。
エリシアは静かに姿勢を正し、父の合図を受けて食器に手を添えた。
ジンガは、この世界の礼儀作法を知らない。
だからこそ、自分が知っている限りのテーブルマナーに従うことにした。
外側から順に手を伸ばし、用意された料理を口に運んでいく。
口に含んだ瞬間、香草の爽やかな香りとスープの旨味が広がった。
焼きたてのパンは表面が香ばしく、中は柔らかく温かい。
果実は甘酸っぱく、舌に残る瑞々しさが心地よい。
(……美味いな)
決して豪華さばかりではなく、丁寧に作られている味だった。
食堂の荘厳さとは裏腹に、どこか人の温もりを感じさせる食事に、ジンガは小さく息を吐いた。
やがて三人は黙々と食事を進め、広間には食器の触れ合う音だけが響いた。
皿が空になり、スープの湯気も消えていく。
こうして、静かな朝食のひとときは終わりを迎えた。
アドリアンは卓上のカップを指で軽くなぞり、ゆるやかに息を吐いた。
「……ふう」
その声音は食事の場を締めると同時に、新たな空気を呼び込むものだった。
「ジンガ殿。
改めて礼を述べよう。
娘を救った恩義は、我が家として決して軽んじることはない」
鋭さを帯びた瞳が、真正面からジンガを捉える。
「だが同時に――君がいかなる者であるのか、確かめねばならぬ」
静まり返った食堂に、当主の言葉が重く響いた。




