第十話
「立てるか?」
ジンガは少女に手を伸ばした。
少女はその手を見つめ、胸の奥でためらいを抱いた。だが、恐怖で震える足では立ち上がれないことを悟り、そっと指先を伸ばす。
かすかに触れた瞬間、その手はしっかりと彼女を包み込み、ぐっと引き上げた。
少女の体が宙に浮き、次の瞬間、しっかりと地を踏む。震えは残っていたが、その支えによって立ち上がることができた。
「お嬢様っ!」
ちょうど少女の手を離したと同時に、一人の騎士が駆け寄ってきた。ジンガはその邪魔にならないように一歩引いた。
騎士は血にまみれた剣を握りしめたまま、少女の前に膝をつく。焦燥の色を宿した瞳で無事を確かめ、震える声で言葉をかける。
「ご無事で……!」
すぐに残りの三人も駆け寄り、少女を囲むように立ち並んだ。
四人の鎧が月光を反射し、小さな円を描いて彼女を守る。その中心に立つ少女は、まだ震えの残る足を必死に支えながら、胸の奥に広がる安堵を押し隠していた。
ジンガはその様子を見て、彼らに背を向けた。兜巾を被りなおす。
もうこの場に自分は必要ないと判断したからだ。助けが欲しくて飛び出したわけではないし、感謝を求めて動いたわけでもない。
「待ってくれ。君はいったい……」
背後から声が飛ぶ。鋭さと戸惑いを帯びたその声音に、ジンガの足がわずかに止まった。
「ただの通りすがりだよ」
振り返ることなく放たれた言葉は、夜気に溶けていった。
「待て!」
鋼を引きずるような声が重なる。
「通りすがりであろうと、この場に踏み入った以上、素性を明かしてもらう!」
足音が近づく。鎧の軋みとともに、一人の騎士がジンガの背を追い、剣の切っ先を向ける。
救われたことへの感謝と、得体の知れぬ存在への警戒――その両方が、騎士の硬い表情に宿っていた。
ジンガは振り返らない。ただ肩越しに、淡々とした声を返す。
「剣を下ろせ。俺は敵じゃない」
その余裕を宿した背中に、騎士の呼吸がわずかに乱れる。
「ならば名を名乗れ! 出自を明かせ! でなければ我らは、あなたを信じることはできぬ!」
剣先がさらに近づく。冷たい鉄が背中に触れる寸前で止まり、騎士の荒い息遣いが夜気を震わせた。
「俺の名前はジンガ。……これでいいか?」
振り返ることなく告げられたその声は、静かで揺るぎない。
騎士は息を呑んだ。剣を握る手に迷いが走る。
――自分は相手にされていない。そう思い知らされるだけの重さが、その背にあった。
「やめろ!」
鋭い声が割って入った。もう一人の騎士が駆け寄り、剣を押し下げる。
「お嬢様を救った方に、無礼を働くな!」
「……やめて」
その声に続くように、少女が小さな声を上げた。
握ったドレスの裾が震えを伝えていたが、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「この方は……私を助けてくれたの」
「そう責めてやるな」
ジンガは短くそう言って、ようやく振り返った。
「邪魔者になると思ったんだけど、残った方がいいなら残るよ」
淡々と告げられたその言葉に、場の空気が静まり返る。
「お前は剣を仕舞え」
別の騎士が低く言い放った。すでに押し下げられていた剣を見やり、仲間に明確な判断を促す。
突きつけた騎士は逡巡の末、無言で剣を鞘に納めた。
安堵が広がったその輪の中で、少女は小さく息を吸い込む。
破れた裾を握りしめた手をそっと離し、震える足を前へ踏み出した。
恐怖の影をまだ宿しながらも、その瞳はまっすぐにジンガを捉えていた。
「お嬢様っ!?」
すぐそばにいた騎士が慌てて前に出る。
だが、少女はその制止を片手で遮った。小さく横に振られたその仕草は、短いながらも強い意志を宿していた。
「……ジンガ様」
先ほど名乗られた名を呼び、少女は胸に手を当てて小さく頭を下げた。
「わ、私の名前はエリシア・オルフェール。本当に……助けていただき、ありがとうございます」
声は震えていたが、その仕草には幼い影を残しながらも、貴族の矜持がにじんでいた。
「どういたしまして、エリシア様」
ジンガは片膝を折り、胸に手を添えて頭を垂れた。
その動きはぎこちなくも真摯で、場をわきまえた騎士の礼のように見えた。
正面から少女の感謝を受け止めるその姿に、静かな誠意が宿っていた。
「助かってよかったよ」
そう口にした彼の顔は、戦いの余熱を帯びたまま硬さを残していた。だが口元だけがわずかに緩み、黒い瞳に一瞬のやわらかな光が差した。
「そ、その、ジンガ様さえよろしければ、なのですが……」
エリシアは震える声で続けた。
「一緒に来てくださいませんか?」
胸の前で握りしめた両手が小さく震えていた。だがその瞳には、先ほどまでの恐怖とは違う色が宿っていた。
「お嬢様……!?」
最も近くにいた騎士が目を見開いた。
続いて他の騎士たちもざわめき、互いに顔を見合わせる。
「そ、そのような……」
「いったい、どういうおつもりで……」
鎧の軋む音と戸惑いの声が重なり、場の緊張が再び走った。
「……周りは嫌そうな顔をしてるけど?」
ジンガはゆるりと立ち上がって、軽い調子でそう言った。
「……それでも」
エリシアは小さく首を振った。
不安に揺れる声だったが、瞳だけはまっすぐにジンガを見据えている。
「……それでも、私は……ジンガ様に来ていただきたいのです」
震える声に、場の空気が一瞬止まった。
「周りが良いって言ったらな」
ジンガは軽く肩をすくめ、騎士たちへと視線を流した。




