3 あの日に戻れるなら
「お弁当を持たない夫は、会社近くのコンビニでお昼を買いに行き、そこで……」
深雪の目から涙が落ちた。
「通り魔事件に巻き込まれ、殺されました」
「一ヶ月前に起きた、『駅前広場通り魔殺人事件』ですね」
「はい」
その事件なら八尋も知っていた。
駅前のロータリーで、刃物を持った男が突然通行人を襲い、5人が死亡、7人が重軽傷を負った無差別殺傷事件だ。
この事件は連日のようにテレビで報道され、多くの人がその悲惨さと恐怖に驚いたに違いない。
「私が夫にお弁当を作って持たせていたら、夫は事件に巻き込まれることも、殺されることもなかったんです」
だから夫が殺されたのは私のせいです、と女は顔に手を当て、声を上げ泣いた。
大切な人を失った悲しみは当人しか分からない。慰める言葉もなく、八尋は店の隅で身を縮ませた。
「なぜ、あの日私たちは喧嘩をしたのでしょう。いいえ、もっとも私が勝手に夫に当たり散らしていただけ。でももう、夫に謝ることもできない。きっと夫はあの世にも行けず、こんな心の冷たい私を恨んでいるでしょう。どうして夫が食べたいと言ったお弁当を作ってあげなかったのか、後悔してもしきれません」
カウンターに涙の粒が落ちる。深雪は肩を激しく震わせ嗚咽した。
こんな重すぎる話を聞かされ、どう対処するのだろう、と八尋はこっそりと一樹の様子を窺う。というか、幽霊の話を聞くのも驚きだったが、こうして生きている者のヘビーな悩み事も聞いているのだと思うと、いったい一樹は何者なのか、ますます謎に思えてきた。
深雪はうなだれながら泣き続けている。
さすがの一樹も、この件に関してはお手上げだろうと八尋は思った。
どんな慰めも彼女の胸には届かない。
彼女の夫が生き返ることは絶対にあり得ないのだし、生者と死者、互いに住む世界が違ってしまったのだから、もう二度と会うことも会話をすることも叶わない。
今回ばかりはさすがの一樹には何もできない。後は過ぎて行く時が、深雪の悲しみを少しずつ取り去っていくしかないのだ。
「深雪さん、ご主人様はあなたを恨んだりはしていませんよ。なぜ、大切な妻を恨むのでしょう。むしろ、家族を残していったことに対してひどく悔やんでいます。深雪さんのことを心から案じていますよ」
一樹さん、彼女の旦那さんのことなど知らないのに、そんなこと言って大丈夫ですか? と、八尋は心の中で思いながらおろおろする。
案の定、深雪は眉間を寄せ、一樹を睨みつけた。
「そんなわけないです! でたらめを言わないで。そんな慰めなんて」
「慰め? いいえ、私はありのままの事実を言っているだけです」
「事実? どうして? あなたに何が分かるというの」
一樹は真剣な眼差しで深雪を見つめ返す。
「深雪さんは、なぜここを訪れたのでしょう。信じていただけないのなら、残念ですが私が何を言っても無駄でしょう」
うわわ。それは確かにそうだけど、一樹さんちょっとそれは突き放した言い方ではないですか? 大丈夫ですか?
はっきりと一樹に諭され、深雪は大きく深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「すみません。九重さんには分かるのですか? 夫のことが」
ええ、と一樹は頷く。
「私のせいで夫は……あの日、お弁当を作ってあげていれば」
八尋は口を挟むことなく黙ったまま、二人の会話に耳を傾けていた。
あの時、ああしていればよかった。
こうしていれば……人生にはそういう選択の岐路は多々ある。けれど、それが大きく、ましてや大切な人の死に関わるとなると、残された者の後悔は計り知れない。
「あの日に戻れるなら、夫にお弁当を作ってあげたい。夫の大好物をたくさん詰めて」
けれど、どんなにそう願っても、時間を巻き戻すことはできないのだ。
「夫は今どうしているのでしょう? 私の側にいますか? もしいるのなら、夫に謝りたいんです。私の言葉を伝えてはくれませんか?」
切実な顔で訴えかけてくる深雪に、しかし、一樹は首を横に振る。
「残念ながら、深雪さんの側にはいません」
「では、今どこに」
「差し支えなければ、ご主人様の写真を拝見させていただけますか」
「は、はい」
深雪はバッグから一枚の写真を取り出し一樹に手渡した。写真には深雪と深雪の夫が笑いながら写っている。幸せそうな笑顔だ。
手にした写真を一樹はじっと見つめている。時間にして二分か三分ほど。沈黙が続き、深雪は不安そうな目で一樹を見上げた。
ようやく写真から目を離した一樹は静かな口調で言う。
「ご主人の名前は、直哉さん」
深雪は目を見開いた。もちろん八尋もだ。なぜ、写真を見ただけで旦那さんの名前が分かったのか。
深雪から受け取った写真に、旦那さんの名前でも書いてあるかと思ったが、もちろんそういうわけではない。
「どうして、主人の名前を?」
「驚かせてしまいすみません。霊視をしました」
「霊視?」
聞き慣れない言葉に、八尋と深雪は揃って首を傾げた。
「昔から普通の人にはない感覚、つまり霊感が鋭いんです。霊視をしたいと思う相手を視ただけで、その人のことや背景が視えてしまって。こうして写真を見たり、あるいは相手の名前や生年月日が書かれた紙を見ただけでも」
「はあ……」
「へえ……」
深雪と八尋は、分かったような、分からないような返事をする。
一樹は続けた。
「ご主人は、事件が起きた現場にいます。どうやら何か理由があるらしく、そこから動けないようです」
八尋はひー、と心の中で悲鳴を上げた。そんなことまで分かるのかと。霊視とかいう能力のことも含めて、ますます一樹の正体が謎になってきた。
「そんな、直哉がまだあの現場から動けずにいるなんて」
深雪はぽろぽろと涙を流す。
「私なら、ご主人を深雪さんの元に連れ戻すお手伝いができます」
「本当ですか! 本当に?」
思わず、深雪は椅子から立ち上がり身を乗り出した。
「はい。私にお任せください」
「ありがとうございます」
「必ず深雪さんの元へ連れてきて、直哉さんの言葉をあなたに届けましょう」
「お願いします」
「深雪さん、あなたも直哉さんに伝えなければならないことがあるのでしょう?」
「え?」
「とても大切なことを。そうですよね?」
「はい……」
深雪はこくりと頷いた。
「では、その前にちゃんと召し上がってください。その様子では、ずっと何も口にしていなかったのでしょう。いけませんよ」
「そうですよ。そんなことではご主人だって悲しみます!」
食事の続きを勧める一樹に続き、八尋も深雪を元気づけるために手を握りしめて言う。
「そうですね。本当にそうだと思います」
深雪はこぼれる涙を拭い再び箸をとると、食事を続けた。
「お魚、とてもおいしいです。優しい味がする。おいしい……」
出された食事をすべて平らげた深雪は、一樹に深々と頭を下げ、店を出た。
二人のやりとりを、店の隅で見ていた八尋は不思議そうな顔をする。
「幽霊だけではなく、今みたいに生きている人の心霊相談ものるんですね」
「そういうこともありますね。心霊がらみの相談なら何でも」
「それで、どうするんですか?」
一樹は通り魔事件で殺された、深雪のご主人を連れてくると言った。だが、どうやって亡くなった人を連れてくるのだろうか。
「八尋くんにも手伝っていただきたいことがあるのですが、いいでしょうか」
「はい! 僕にできることなら何でもします!」
と、八尋は即答した。




