2 些細な夫婦喧嘩
「お待たせしました」
さわらの味噌幽庵焼きの他に、ご飯とお吸い物、ひじきの小鉢とお漬物も並べた。
「いただきます」
声にならない声で呟き、女性は幽庵焼きに手をつける。
さわらの切り身を箸で裂く。
裂いた切り身から、ふわりと湯気が優しげに立ちのぼった。
じっくり焼いたことでうまみ成分を閉じ込めたさわらは、表面はパリッと、中はふっくらに焼き上がっている。柚子と白味噌の風味が引き立つさわらは、コクがあって香ばしい。
冷めてもうまいとはいっても、やはり焼きたてに勝るものはない。
一口食べた女性は口元に手をあて、驚いた顔をしている。
その顔は料理の味にそれほど期待していなかったが、食べてみたら予想以上においしくてびっくりしたというように見えた。
さらに、女性はさわらを食べ進めていく。
もう一口、さらに一口。味噌付けにしていることもあって、ほどよいしょっぱさで、ご飯も進む。
八尋はごくりと喉を鳴らした。
ついつい女性の食べる姿に目がいってしまう。
魚よりも肉と思っていた八尋だが、一樹の作るさわらの味噌幽庵はとてつもなく魅力的だ。
手を休めず、さわらをぱくぱくと食べていた女性は、途中、小鉢のひじきに手を伸ばす。
「これもおいしいわ」
と、しみじみと呟いた。
ひじきの煮物。おなじみ家庭料理の定番だ。
煮汁を吸ったひじきは、食べるとじゅわっと口の中で旨味が広がり、これがまたご飯に合うのだ。
ひじきのもどし加減と火加減が、おいしく作るコツだという。
不意に女性の目から涙がこぼれ落ちた。
え? 泣いている? なんで?
美味しすぎて泣いているのか。それとも、何か悲しいことでもあったのか。
指先で涙を拭う女性に配慮して、八尋は店の隅にそっと移動する。
「あの……」
女性は顔を上げ、カウンターに立つ一樹を見上げた。
「あなたが、九重先生でしょうか」
先生? なんだそれ。
先生と呼ばれた一樹を訝しみ八尋は首を傾げる。
小料理屋の店主が、なんで先生と呼ばれるのだろう。
そもそも何の先生だ? 料理の先生?
「ええ、私がそうです」
先生と呼ばれた一樹も、否定はしない。
「悩みを聞いてくださると、ネットの口コミを見て来ました」
悩み? ここは小料理屋でありながら、それ以外にも、カウンセリングをするところでもあって、だから一樹のことを先生と呼ぶのか。
「もちろん、聞きますよ」
女性はいったん箸を置き膝の上に手を乗せる。
「私は溝口深雪と申します。一ヶ月前に夫を亡くしました」
深雪と名乗った女性は、バッグからハンカチを取り出し目元を押さえた。
八尋は、ああ、と心の中で納得する。だから、この深雪という女性が黒一色の装いなのも納得がいった。喪服を着ているのだ。
それにしても、いきなり重い話になりそうだと八尋は身構えつつも、自分の存在が女性の邪魔にならないよう、空気になるべく息を潜めることに徹した。
「夫が亡くなる当日の朝のことです。私たちは些細なことで喧嘩をしてしまいました。本当につまらないことだったんです」
深雪はいったん言葉を切る。
おそらくここへくる間、どういう風に相手に伝えようかと何度も頭の中で繰り返したのだろうことが伺いしれる。
しばしの沈黙の後、深雪は再び口を開いた。
「私たち夫婦は共働きをしています。私もフルタイムで会社勤めをしていて、残業で遅くなることもあり、疲れのせいで、夫が朝出かける時も起きられず、布団の中から見送るどころか、夫が出かけたことすら気づかないことがよくありました。事故があったその日、夫が珍しく、今日は私の作るお弁当が食べたいと言ってきたのですが、結局、朝早く起きられず、お弁当を作ってあげられませんでした。そのことで夫は私を責めたりすることはなかったのですが、朝食もお弁当も作らなかったという、私自身の負い目のせいで、朝から夫に当たり散らしてしまいました。夫は無理を言ってごめん、と声を落としその日、家を出ました。玄関の扉が閉まる瞬間、目が合った夫の寂しそうな顔が今でも忘れられません」
深雪はハンカチを口元に当て、泣き声を押し殺すように肩を震わせた。
一樹は相手が話し終えるまで、ただ黙って聞いていた。
相手が続きを口にするのを根気よく待ち続けているのだ。




