1 初仕事
都内某所。
繁華街から一本道を外れた場所にある小料理屋『想』。
隠れ家的その店は、和モダンな店構えに落ち着いた店内で、店主はイケメン、料理は超絶品という店だ。
路上飯テロに抗えず、胃袋わしづかみなうまそうなにおいに引き寄せられ、職なし家なし、全財産350円を握りしめ、店の暖簾をくぐった八尋は、店主である九重一樹の料理と人柄に、まさに胃袋も心も掴まれた。
運命の出会いか、成り行きか、一樹の好意によって店で働かせてもらうことになった。
というのがこれまでのいきさつだ。
お給料がもらえる上に、住み込みの賄い付きという好条件を誰が断るだろうか。
仕事を失い、住む家もなかった八尋にとって、ここで働かせてもらえることは、まさに奇跡の一言であった。
もう公園のベンチで、寒さに耐えながら拾い集めた段ボールを掛け布団代わりに身体に巻き付けて寝ることはしなくていいのだ。それに、温かくて最高においしいご飯が食べられると思うと、それだけで涙が出てくる。
神様、一樹様、ありがとうございます。僕、頑張りますから!
もっとも、八尋はこれまで一度も料理などしたことがないため、仕事といえばもっぱら店内の掃除と簡単な下ごしらえの手伝いだ。
そんなわけで、役立っているのかどうか、怪しくて申し訳なさすぎる。
何もできなさすぎて、むしろ、できることは何かと聞いた方が早い。
やはり使えないと言われクビになっては大変だ。だから八尋は、店の掃除だけは完璧にこなし、やって来るお客さまを気持ちよく迎えようと心がけた。
それからお客さまに対しても、誠心誠意を込め接客にあたろうと意気込む。
だが、この店は普通の小料理屋とは違っていた。
やってくる客は少々変わっていて、生きている者はもちろんだが、それだけではなく、死者も訪れ料理を食べる店であったのだ。
こんなサービス精神旺盛な店は初めてだ。聞いたことがない。いや、ネットで探してもそんな店などないだろう。
店主は普通の人より少しだけ霊感が強く、店に来る死者たちの話を親身になって聞き、向き合い、あるいはこの世に残した未練を叶え、あの世へと旅立つお手伝いをする店だったのだ。
幽霊からはお金はとれないけれど、そこのところはいいんですか、と一度、一樹に尋ねたことがある。
経営的にも大丈夫なのか。
しかし、返ってきた答えに八尋は首を傾げた。
「お金の問題ではないですから」
うーん、分からない。
まあ、一樹のやり方に、何も知らない八尋が口を出すつもりは毛頭ない。
それはとにかく、この店に初めて足を踏み入れた八尋も、生まれて初めて霊というものを視た。
働き初めてから一週間が経ったが、その間も何人かの幽霊が店に訪れては、店主と会話をし、料理を食べて成仏していった。
これまで霊など見たこともなかった霊感ゼロの八尋であったが、今ではすっかり視える体質だ。
店主曰く、私の側にいると影響されて、視えるようになってしまうこともあるのだとか。
僕もそのうちの一人だったということらしい。
「そ、そうだったんですね」
と、答えた八尋の顔が引きつっていたのは言うまでもない。
この影響だけは、ちょっと嬉しくない。
できることなら、遠慮したかった。
「私の側から完全に離れたら、霊も視えなくなると思いますが」
「はあ」
雇い主である一樹の側から離れることはできないのだから、これは諦めるしかないと覚悟を決めた。むしろ、視える体質を活かして、そっち方面の仕事のお手伝いをさせていただくことも可能だろうか。
などと朝からそんなことを考えているうちに、ランチ時間にやってきた客も引いた。
洗い物をしている八尋の横では一樹が料理の仕込みをしている。
しいたけの表面に切り込みを入れる飾りきりや、にんじんのねじり梅、花れんこん、かぶを菊に見立てた菊花かぶなど、ただの野菜が一樹の手によって別の形に変わっていくのを感心しながら眺めていた。
洗った食器をすすぎながら、八尋は一樹の手元を眺める。
今まで料理などまったく興味がなかった八尋だが、一樹の作る料理には興味を持った。
「どうしましたか?」
じっと見つめている八尋に気づいた一樹はにこりと微笑む。
ああ、癒やしの笑みだ。和むな。
「いえ、一樹さんって何でもできるんだなって思って」
料理のできない八尋にとっては尊敬と感嘆の意味で言ったのだが、出来て当たり前の料理人には今の言葉は失礼であった。
「私も最初は手つきが危なっかしいと叱られたものですよ」
一樹は別段気を悪くしたわけでもなく、それどころかどこまでも謙虚であった。そういうところが好感が持てるのだと八尋は思った。
「へえ、一樹さんは最初から何でもできるイメージでした」
「まさか」
「でも、こうやって手間暇かけて下ごしらえをするんだって思うと、これからはもっと目でも楽しんで味わわなければいけないですね」
「おいしく食べていただけたら、それだけで嬉しいものですよ」
そんな他愛もない会話をしていたところへ、店の扉のガラス扉越しに人影が映った。
「お客さまかな」
八尋は洗い物をいったん中断し、タオルで手を拭く。
静かに引き戸が開かれると、中を覗うように一人の女性が顔を覗かせた。
歳は二十歳前半くらい。線の細い痩せ型、というよりも、やつれた感じの人であった。顔色もどことなく土気色で生気がない。上下とも黒い服を着ているせいか、暗い印象に見える。
「いらっしゃいませ!」
八尋はやって来た女性に声をかける。しかし、その女性は店に入るのを躊躇っているのか、戸口に突っ立ったままだ。
確かに小料理屋というと、敷居が高いイメージがあるから、店に入るのに抵抗があるのだろう。
八尋も最初はそうだった。
そう思って、八尋は小料理屋は敷居が高いという偏見を取り除き、印象をよくしようと、挨拶をするときはにこやかに笑顔を向けるよう心がけた。が、それでも女性は店内を見渡すだけで入ってこようとはしない。反応がないのだ。
あれ?
ふと八尋は別の不安を覚え、一度だけきつく目をつむり、ぶるぶると首を振ってもう一度女性の姿を確かめた。
ランチ時間も終わった午後三時。まだ明るい時間帯だが、もしかしたら彼女も幽霊なのか。ああでも、一樹は幽霊が現れるのは昼も夜も関係ないと言っていた。けれど、幽霊にしてはあまりにもはっきりと見える。
というのも、すっかり一樹の霊感に影響を受けすぎたのか、今の八尋は生者も死者も見分けがつかないほど、はっきり視えるようになったからだ。
だから、死んだ者にまで普通に話しかけてしまいそうで、それはそれで少々不便だ。
八尋はどっちですか? というように一樹を見る。
すると、一樹は相手は死者ではないですよ、という意味で首を横に振る。
それを知って安心した八尋は元気な声で、
「お好きな席にどうぞ」
と、親しみを込め、店の入り口にいる女性に声をかけた。
他に客はいないので、席はどこに座ってもよい。もっとも、八尋が知る限り、この店がお客でいっぱいになるということは、今まで見たことはないが。
ようやく足を踏み入れた女性は、おずおずとカウンター席に腰を下ろした。一拍置いて、一樹がおしぼりと温かいお茶を差し出す。
女性は目の前のお品書きを手に取り、さっとメニューを眺めてから、
「さわらの味噌幽庵焼きをお願いします」
と、かすれた声で注文をする。
「かしこまりました」
ゆうあんやき? って何だろう。
お品書きに書かれているのを目にしたが、実際にどんな料理かは知らなかった。
八尋は興味津々という顔で一樹が調理する様子を眺めていた。
一樹は冷蔵庫からボウルを取り出した。
日本酒を煮た〝煮切り酒〟にみりんと淡口しょうゆ、濃口しょうゆを混ぜ合わせた幽庵地に、白味噌を溶きさわらの切り身と柚子の輪切りを入れ冷蔵庫で一晩置いたものである。
さわらにまとっている幽庵地は拭わず、串打ちにしてじっくりと焼き始めた。
さわらは味噌に漬け込んでいるので焦げやすい。
火加減に注意をしながら丁寧に焼いていく。中火から弱火で時間をかけてじわじわと焼き上げると、冷めても固くならないのだ。しだいに、味噌と醤油の香ばしいにおいが漂ってきた。
火が通ったら、刷毛でタレをのせるように塗る。味噌をまとったさわらの表面に、ほどよく焦げ目がつきパチパチと弾けるような音が聞こえてきた。
焼きあがったさわらを、手ひねり風のデザインが特徴的な和風な長皿器に盛り、付け合わせに菊花かぶを添える。




