6 不思議な店主
「い、いただきます」
八尋は誘惑に抗うことをやめ、勢いよく箸をとる。
出されたしょうが焼きを食べて騙されて後悔するか、食べなかったことで後悔するか、どちらを選ぶか。後者だ。
そう思うことにした。
それに、店主の言う通り、冷めてしまうのはもったいない。できたてを提供してくれた店主に失礼だ。
よし、食べてやる。食べてやるぞ!
「どうぞ。召し上がれ」
箸を手に八尋はごくりと喉を鳴らす。
普段使いしやすい白磁しのぎの器に、こんもり盛られた千切りキャベツとしょうが焼き。器はシンプルながらも上品さを兼ね備え、和洋中、おそらくどんな料理にも合う万能な器だ。
気負うことなく普段使いしやすいリーズナブルさでありながら、上質な雰囲気を備えている。
うまそうだ。いや、うまそうではなく、これは間違いなくうまいはず。
違う違う! うまいはずではなく、絶対にうまい、と断言できる。
まずは、箸でつかんだ肉を一口食べると、鼻から大きく息を吸ってもらす。
しょうが焼きを頬張った状態で八尋は、うーん、と声をもらした。
ああ、うまいよ、うまい。
豚汁では満たされなかった胃袋が、歓喜の太鼓を叩いて踊っている。
あまりのうまさに、脳内でも謎の踊りが繰り広げられた。
甘辛な醤油にさわやかな生姜とにんにくの刺激を含むタレ。柔らかい肉に薄力粉を薄くまぶしたことにより、まんべんなくその秘伝(かどうかは分からないが)のタレが馴染んで絡んでいた。
最初に一気に強火で片面を焼くことで、肉汁を逃さないようにし、後は弱火で柔らかく焼き上げていることもある。
玉ねぎも、ある程度シャキッとした食感を残していて、歯ごたえを楽しませてくれた。
一口食べた後はもう箸が止まらなかった。
そう、箸が止まらないとはこういうことを言うのだという言葉が、まさにぴたりと当てはまる。
ここで、やはりお金がない人には食べさせませんと言って皿を取り上げられたら、間違いなく、その肉を返せと暴れたかもしれない。
そのくらい、感動的な味であった。
肉とタレがしみこんだキャベツを一緒にとり、大きな口を開けて食べる。唇の端に醤油がつき、八尋は人差し指で拭った。その指もペロリと舐める。
やばい。うまい!
白米が欲しくなり、ご飯を口に放り込む。
「うわ! この白米もうまいです!」
自炊していた時に食べていた安米とは大違いだ。
それとも炊き方の問題か。それにしても、白米の甘味が全然違うような気がした。
改めて茶碗に盛られた白米を見てみると、光をまとったかのように米粒の一つ一つがつやつやであった。
まさに、光沢をコーティングした白い妖精。
「ミルキークイーンですよ。粘りが強く、モチモチとした食感が特徴なんです」
確かに、噛むほどに甘みが出て、もっちりとした食感だ。
「こんなうまい米、初めてです!」
大袈裟かもしれないが、本当にそうなのだ。
店主はくすりと笑う。
「おかわりも……」
「お願いします!」
と、店主が訊ねるよりも早く、八尋は茶碗を勢いよく突き出した。
遠慮もかなぐりすて、初めてのミルキークイーンに魂を奪われる。
白米がおいしければ、おかずのうまさも倍増だ。
後はただ無心に、目の前のしょうが焼きと一対一の勝負とばかりに八尋は向き合い猛然と食べた。
最後の肉の一口を名残惜しそうに見つめ口に運ぶ。じっくりと肉の味を噛みしめ、ごくりと飲み込んだ。
箸を置いた八尋は息をつく。
久しぶりに味わった幸福感。冷えた身体も温まりぽかぽかだ。うっすらとひたいに汗まで浮かんでいる。
「ごちそうさまでした。とても、おいしかったです」
がつがつ食べたわりには、お粗末な感想しか口にできない自分にがっかりだ。
もっと気の利いたことを言うべきだったかもしれない。だが、本当においしいものに余計な言葉はいらない。
八尋の食べっぷりを見ればどれだけ満足したか、店主にも伝わるはず。
「それはよかったです」
「なんか、すっごく久しぶりにまともな食事をしたうえに……」
八尋ははっとなる。
こんなことを言ったら、腹が減っていたから美味しかったと言っているみたいではないか。それではあまりにも失礼だ。いや、そうではなくて。
「本当にめちゃくちゃおいしかったです! 実は仕事も決まらないし、ちょっと……かなり落ち込んでいたけど、まだまだ頑張れそうな気がしてきました。元気とやる気がわいてきたような。本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません!」
八尋は立ち上がり、気をつけをして、地面に頭がつくほどお辞儀をした。
「それは大袈裟ですよ」
「本当です! お金は必ず返しにきます。お名前を伺ってもいいですか? 僕は広田八尋です」
親切にしてきた店主を何か裏があると怪しんだ自分が恥ずかしい。
「八尋くんですね。私は九重一樹です」
九重一樹、と八尋は声には出さず繰り返す。
「九重さんは、このお店の店主さんですよね?」
「そうですよ」
「あの、もう一つ聞いてもいいですか?」
「何でもどうぞ」
八尋は先程、平沢という男が座っていたカウンター席に視線を落とす。
「さっき幽霊が来て、九重さんのご飯を食べて消えましたけど、あれはいったい何だったんですか?」
その質問はすでに予想済みだったのか、一樹は軽く頷いた。
「この店はそういう店なんです。もちろん、普通のお客さまもおみえになりますが」
「こういう店? 普通に生きてるお客さんも来るけど、さっきのように幽霊が来ても普通に食事を出すってことですか? 九重さんって、いったい、何者なんですか?」
「何者でもないですよ。ただ、少しばかり普通の人より勘が鋭いだけです」
「勘?」
「霊感ですね」
はは、と八尋は引きつった笑いを浮かべる。
いや、あれを少しばかり霊感が鋭いだけというのだろうかと疑問に思ったが、それ以上突っ込むのはやめた。
「本当に霊が視える人っているんですね。信じられないです」
「そういう八尋くんも、視えたでしょう?」
「はい。あんなにはっきり霊が視えるなんて驚きました。最初、生きてる人だと思ったくらいです。そのくらい区別がつかなかったから。僕、幽霊っていうのは透明で、足がないものだと思っていたから」
「もちろん、今にも消えそうな、八尋くんの言う透明な姿をした霊もいますよ」
「へえ、そうなんですね。それにしても幽霊って本当にいるんですね。いや、幽霊の存在を否定していたわけじゃないけど」
まだまだ話したいことがあったが、これ以上仕事の邪魔をするのは申し訳ない。
「それじゃ、僕行きます。本当にごちそうさまでした」
「八尋くん?」
去っていこうとした八尋だが、一樹に引き止められ振り返る。
「行くところがないのでしょう?」
「え? まあ……」
「だったら、ここで働いてみませんか?」
「え?」
「住むところもないと言ってましたね。住み込みでどうでしょう?」
「ええっ!」
いや、待って。だって、いきなりそんなことを言われても。
驚きすぎて返事ができないでいる八尋を見た一樹は、眉を八の字に下げた。イケメンのその表情は卑怯だ。
「賄いつきですが、いやですか? もちろん、賄いは僕が作ります」
「ち、違っ!」
イヤなはずがない。願ったりかなったりだ。
おまけに住み込みで賄いつきとはありがたいの一言ではないか。だが、今日出会ったばかりの者を、いきなりそう簡単に雇っていいのか。
不用心すぎるのではないか。はたまた、本当は何か裏があるのか。
いやいや、と八尋は心の中で首を振る。
たとえ裏があってもかまわない。それに賄いつきということは、一樹の手料理がまた食べられるのだ。
ここで相手の気持ちがいきなり変わっては困る。
とにかく、仕事もなく行くところもない状態で途方にくれていたのは事実。ここで尻込みをしては、せっかくの好機を逃してしまう。
「イヤではないです! いいです! どうぞよろしくお願いします!」
八尋はぴんと背筋を伸ばし、地面にのめり込むほど深く頭を下げた。
これが八尋と、謎めいた小料理屋の店主、九重一樹の出会いであった。




