5 僕、視える人に?
「消えた」
八尋は立ち上がり、今まで平沢が座っていた椅子の側に駆け寄る。
「い、い、今のは何ですか? 男の人が消えましたよね。平沢さんっていう人。それに、今の人、雪崩事故に巻き込まれて亡くなったバスの運転手ですよね? ニュースの!」
八尋はあたふたしながら、テレビを指さし店主に問う。
「そうですよ。バス事故でお亡くなりになった方です」
店主は否定することなく、さらっと認める。
「え? じゃあ、幽霊? 今、僕が見たのは幽霊なんですか!」
「そうなりますね」
そうなりますね、って。
八尋はあんぐりと口を開けた。
何でもないことのように言い、店主は平沢が食べた角煮を片付け始めた。
幽霊であった平沢が食べた角煮は、実際には手は付けられていない状態であった。
まあ、幽霊が出された料理を本当に食べるなどあり得ない話だ。たぶん、お供えという感覚に近いのかも知れない。
「ぼ、僕、生まれて初めて幽霊を見ました! 自分には霊感はないって思っていたのに。店主さんも見えたんですよね」
八尋は興奮し、鼻息を荒くしながら言う。
見えていたどころか、店主は会話もしていた。
「ええ、視えましたよ」
何でもないことのように言い、店主は洗い終わった皿を布巾で拭い片付ける。
「視えた……」
八尋の興奮はまだおさまらない。
「さっきの人、この店に入ってくるときはすごく生気のない顔をしていたけど」
そこまで言って八尋はふと首を傾げる。
すでに亡くなっているのだから生気がないという言い方はおかしいのかもしれないが、本当にそんな状態であった。
「でも、店主さんの角煮を食べた途端、すっごく幸せそうな顔をしていました。娘さんの元に帰ったでしょうか」
「手応えは感じたので、大丈夫でしょう。旅立つその日まで、娘さんの側で過ごせるはずです」
「旅立つ?」
「四十九日のことですよ」
「ああ、なるほど」
八尋はぽんと手を叩き、カウンターに立つ店主を見る。
旅立つとか四十九日とかって、この人まじで何者だろう。
「ところで、豚汁だけでお腹いっぱいになりましたか?」
八尋の視線に気づいた店主は、穏やかな声で問う。
「え? はい」
もっと、店主と話をしてみたいと思ったが、豚汁はとっくに食べ終えたし、実は全然満腹にはなっていないけれど、お金がないから料理を追加注文することはできない。
もっと、この人の作る料理を食べてみたかったな。
心残りを残しながらも、八尋はポケットから小銭をだし代金をトレイに置いた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
と言ったと同時に、お腹がぐうとなる。それも、明らかに店主の耳に聞こえるくらいの大きな音で。
うわ、恥ずかしいと、お腹の辺りを見下ろし顔を赤くする八尋の頭上で、店主がくすりと笑ったのが分かった。
「もしよかったら、何かお召し上がりになりますか?」
八尋は慌てて両手を振る。
「いえ、いいえ! いいです。いえ、食べたくないってわけじゃなくて、実は僕、お金がなくて。今の豚汁代が全財産なんです。お恥ずかしいことに」
右手を持ち上げ、情けない顔でぽりぽりと頭をかく。本当に恥ずかしい限りだ。
店主は整った眉を上げた。
「座って」
「はい?」
「いいから座りなさい」
「え、でも」
「急ぐ用事はないのでしょう?」
八尋は苦笑いを浮かべる。
行くところなどない。
しいていえば、新たな仕事先を探しながら、今日の寝床を見つけるくらいだ。
「はい……」
店主の有無を言わせぬ強い口調に逆らえず、八尋はカウンター席に着く。
「待っていなさい」
店主は包丁を手にリズミカルにキャベツの千切りを始めた。それも鮮やかな速さで。
少しの狂いなくキャベツを刻む音は小気味よい。
男の人とは思えないしなやかな指先に、包丁を操る手つきは魔法のようだと思った。
八尋は店主の手元を眺める。
確かに、あんなにうまいご飯を作って、人を幸せな気持ちにさせるのだから料理は魔法だ。
山盛りのキャベツの千切りができあがると、今度はフライパンを用意する。
冷蔵庫から肉を取り出し薄力粉をふるい、それをタレに仕込んだボウルに漬け込む。漬け込んでいる間、玉ねぎをスライスし、下準備は終えたようだ。
肉を漬け込むこと約十分、店主はフライパンに油をひき、玉ねぎと肉をじゅっと焼き始めた。
最初は強火で一気に、それから弱火でじわじわと。
たちまち生姜の香りが鼻をかすめた。
よだれがでそうになるくらい、いいにおいだ。
お金のない八尋の目の前で肉を焼くとはこれは挑発か嫌がらせか。それとも拷問か。
軽やかにフライパンを揺すり、店主は焼いた肉を白い平皿にのせ、八尋の前に差し出した。
山盛りのキャベツの千切りに乗せられた生姜の香り漂う豚肉。しょうが焼きだ。
出された料理を前に八尋は戸惑いの表情で、店主としょうが焼きを交互に見る。
「食べなさい」
「え? でも、さっきも言ったけど、僕お金がないって」
「お腹が空いているのでしょう? お金は払える時でかまいません」
いやいや、と八尋は手を振る。
「僕、会社が倒産して今は仕事もなくて、必死で探してはいるんだけどこのご時世、なかなか見つからない状態で、住んでいるアパートも追い出されたからすぐに返せそうには」
しどろもどろになりながら、八尋は現在の自分の状況を必死で説明する。
きっと呆れられてしまうだろうと思ったが、店主は眉尻を下げ、心から八尋を気遣う目で見返してきた。
「大変ですね。だったら、なおさらお腹いっぱい食べて元気を出すといいでしょう」
はい?
八尋はぽかんと口を開ける。
人がいいにもほどがあるのでは。
あるいは、この料理屋は慈善事業か何かを施す場所なのか。
いくらなんでも、初対面の客に、そこまで親切にするのはあり得ない。むしろ何か裏があるのではと勘ぐってしまう。
「あの、どうして僕なんかに親切に?」
「放ってはおけないからですよ」
店主は腕を組み、うん、と考え込むようにして唸る。
「おそらくこれは性分ですね。さあ、冷めないうちにお食べなさい」
はあ、と声をもらして、目の前のしょうが焼きを見つめ、ごくりと喉を鳴らす。
僕は詐欺か何かに騙されているのか。
例えば、これを食べたらとんでもない金額を要求されるとか、払えないなら身体で払えとか言ってとんでもないキツい労働をさせられ、売り飛ばされるとか。
あるいは怪しげな宗教に入信させられる。
八尋はぶるっと背筋を震わせた。
今すぐ店を出よう。
そう思いながらも、しょうが焼きの魅力に取り憑かれ、どうしても振り切ることはできなかった。
湯気を漂わせ、白い皿の中で黄金色のタレをまとった豚ロースが、猛烈な誘惑を放ちながら、さあ食べろ、食べなければ一生後悔するぞ、と訴えかけている。




