4 最高の食事と魂の浄化
「どうですか? 少しは気持ちが楽になりましたか?」
「ええ……」
しかし、平沢にはまだ心残りがあるようだと、八尋は直感する。
何か言いたそうにしている様子だったからだ。おそらく店主も察しているはず。
「平沢さん、どうでしょう。一度、家に戻ってみませんか」
家に戻るって、幽霊でも普通に電車に乗ったりできるのだろうか。まあ、バスの事故現場からここまでやって来たのだから、何らかの移動手段があるのだろう。
店主は続けて言う。
「家に戻って、然るべき日まで家族と供に過ごし、そして、旅立ちましょう」
「本当にいいのでしょうか。私が家族の元に帰っても許されるのですか?」
「もちろんですよ」
しかし、平沢は首を振った。
「ですが、どうやって家に帰ればいいのか分からないのです」
じゃあ、新潟の事故現場からここまでどうやって来たんだ? という突っ込みを入れたくなったが、もちろん思っただけで口には出さない。たぶん、そういう物理的な問題ではないのだ。
何せ幽霊なのだから。
「平沢さんには娘さんがいらっしゃいますね? お名前は衣子さん」
え?
店主の唐突な言葉に、八尋は怪訝な表情を浮かべる。
ますます店主のことが恐ろしくなってきた。
この店主は何者だ? なぜ、平沢さんに娘がいることを知っている? ああ、そういえばさっきテレビのニュースで平沢さんの家族がインタビューを受けていたっけ。若い女性だったから、それを見て娘がいると言ったのか。だが、名前までは出ていなかった気がするが。
けれど、平沢は特にそのことについて言及することはなかった。もしかしたら、店主の怪しさに気づいていないのかもしれない。
「はい。娘がまだ物心つくかつかないかという時期に母親を亡くし、男手一つで娘を育ててきました。その娘が結婚をするんです。結婚式は事故が起きた三日後でした。あの日、娘は私の好物の豚の角煮を作って待っていると……親子水入らずで、娘と最後の食事をとりたかった。娘の作った角煮を食べたかった。お祝いの言葉を贈りたかった」
平沢の目から再び涙があふれる。
「娘の花嫁姿を、この目で見たかった」
うわー、それは本当にかわいそうすぎる。
娘さんの花嫁姿を見たかっただろうに。
思わずもらい泣きをしてしまい、八尋はぐすっと鼻を鳴らした。
目に浮かんだ涙を手の甲で拭う。
「ですが、私がいなくなっても、娘には寄り添える相手がいる。それがせめてもの救いです。娘も寂しい思いをすることはないでしょう」
そう言いつつも、平沢本人が悲しそうな顔をしていた。
そんな心残りを抱えたままでは、あの世に行きたくても行けないだろう。けれど、生きているならまだしも、もうこの世に身体はない。だから、娘に会いたくても会えないし、娘の料理を食べたくても叶わない。
言葉を伝えたいと思っても、相手の耳に自分の声は届かない。
肩を震わせ泣く平沢の前に、ことりと、店主は器を置いた。
「どうぞ」
このタイミングでその料理が出されたことに驚いたのと、醤油の香ばしいにおいに八尋はごくりと唾を飲み込む。
忘れかけていた空腹感が再び八尋を襲う。
小紫の模様が描かれた深皿に盛られているのは、まさに平沢の好物だという角煮であった。
「ああ……」
と、平沢は震える声をもらした。
「召し上がってください。衣子さんが作ったものではありませんが、平沢さんの好物だということで」
平沢はごくりと唾を飲み込んだ。
目の前に好物のものを出されては、抗うことなどできない。
「い、いただきます」
震える手で平沢は豚の角煮を箸で裂いて口に運ぶ。軽く上を向き、目を閉じた平沢の目から一粒の涙が落ちた。
手間暇かけて長時間煮込んだのが分かる。
べっこう色になった肉と脂と皮、そしてぷるんとしたゼラチンの断面は分厚いながらも、箸で切れるほど柔らかく煮込まれていた。
豚肉をしっかりと焼くことで、ぎゅっと閉じ込めた旨味があふれだし、余分な脂を落としたため、くどさはなく口の中にふわっとした食感が広がる。添えられた和辛子が、ぴりっとしたアクセントとなっていた。
平沢は角煮と、角煮からあふれる旨味を含んだ煮汁も、味わうようにじっくりと噛みしめている。
「おいしいです。本当に、おいしい」
角煮を味わう平沢の脳裏に、自分の好物を作って帰りを待つ娘の姿が思い浮かんだに違いない。
平沢さん、美味しそうに食べるなあ。
物欲しそうな顔をする八尋の口が知らず知らず半開きになっていた。
今にもよだれが落ちそうであった。
その時、八尋のまぶたの裏がちらちらと光った。それはまるでテレビの画面がフラッシュする現象に似ていて、それが数秒続いたと思ったら、次にはっきりと映像が映った。
二人の若い男女の姿であった。
『衣子、疲れただろう。今日の夕飯は僕が作るから、少し休むといい』
若い男が衣子と呼ぶ女性の身体を気遣うように支えていた。
『ううん、大丈夫。今日は初七日だから、お父さんの大好きな豚の角煮をどうしても作りたかったの。事故があった日も、お父さんこれを楽しみに帰って来るって言ってたのに』
娘は角煮の入った皿を父親の位牌の前に置き、手を合わせた。
『お父さん、今どうしてるの? お父さんの好きな角煮を作ったよ。食べてね』
『きっとお義父さんも喜んでるよ』
『うん』
涙ぐむ衣子の肩を、男はそっと抱き寄せた。
そこで、まぶたの裏に浮かんだ二人の男女の姿が消えた。
八尋は今見た映像のようなものに驚きぽかんと口を開けている。
今の女性が平沢の娘だと気づくのに、ずいぶんと時間がかかった。
「娘さんも平沢さんの帰りを待っていますよ。さあ、戻りましょう」
「そうですね。そうします」
と、言って平沢は椅子から立ち上がった。
「ありがとうございます。私の話を聞いてくださり、おいしい食事までご馳走になりました。この店に寄れてよかったです。それにしても、どうしてでしょう。気づいたらこの辺りをふらふらと歩いていて、食欲をそそるにおいに誘われ、この店に引き寄せられました。不思議ですね」
あ、それ僕も同じ! と、勝手に親近感を持つ。だいたい、空腹時にあの、凄まじい路上飯テロに抗える者なんていないだろう。
「これも縁でしょう」
平沢は店主にお辞儀をすると、すうっ、とまるで煙が立ちのぼっていくようにその場から姿を消した。




