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心霊食堂 ― 旅立ちは思い出の味で ―  作者: 島崎紗都子
第1章 小料理屋『想』

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3 バス事故

 それにしてもさて、困った。

 席を立つタイミングを失い店から出るに出られず、さりとて、強引に会計を済ませようと思っても、二人の会話を邪魔してしまうのは申し訳ない。

 結局、八尋はその場にとどまる羽目となった。

 店主と客の男の会話は続き、その内容はどうしても耳に入ってきてしまう。


「しかし、私のせいで大勢の人が……私のせいで」

 男はあふれる涙を手で拭う。

「私にあなたの心残りを聞かせていただけませんか? お力になれると思います」

 悩みを打ち明ければ、どんなことでも真摯に受け止めてくれそうな店主の優しい口調と姿勢に心を動かされたのか、男は訥々と語り始めた。


「私は、バスの運転手をしていました。そう、あの日も、新宿から新潟へと向かう途中の深夜の高速道で突然の大雪に見舞われ、吹き付ける雪のせいで視界も悪く、これ以上進むのは危険だと思った私は、次のパーキングでいったんバスを止め、会社の指示を仰ごうと思いました。乗客の中にはご高齢の方や、小さなお子さまもいらしたので、何かあってからでは遅いと危惧したからです。パーキングまで後、十キロ、五キロ、二キロ……焦る気持ちを抑えながら慎重に運転し、もうすぐ着く、いや、完全にバスを停めるまでは決して油断はしていけないと言い聞かせていたのですが……気がついたら崖の下でした。最初は自分の身に何が起こったのか分かりませんでした。ですが」

 男は震える手で耳を押さえる。


「暗闇の中、あちこちから聞こえてくる呻き声と泣き声。痛い痛いと叫んでいる声も。何が起きたのだろう。私はバスを運転しているはず。とにかく、次のパーキングに向かわなければと、身体を動かそうとした瞬間、腰のあたりに激痛が走り、ようやく気づきました。事故を起こしたのだと。私の不注意のせいで、乗客を巻き込んだ。なんてことを!」

 男は食いしばった歯から嗚咽をもらし、肩を震わせていた。


 その時、ちょうどテレビから流れるニュースで、事故現場のVTRが映し出された。

 道路には斜面から崩れた雪が積もり、それによってガードレールを破り、崖下へと押し出されたバスはフロント部分は大きくへこみ、車体が横に倒れ、事故の悲惨さを物語っている。

『死亡したバスの運転手、平沢亨ひらさわとおるさんは――』

 そこへ、亡くなったバス運転手の名前と年齢、写真が映し出された。


「え!」

 驚きの声をもらして八尋は、椅子から腰を浮かせた。

 カウンターに両手をつき、身を乗り出すように、テレビの画面と店主の前にいる男を交互に見て、口をパクパクさせる。

 まったく同じ顔だった。着ている制服もたぶん同じ。


「え? だって、え?」

 どういうことだ、とテレビを指差すと、店主は唇に人差し指を当て首を横に振った。

 八尋は口元に手を押し当て、椅子に座り直す。


 いやいや、どう考えたってこんなことってあり得ないだろう。


 心臓がばくばくと鳴っている。何度見てもやはり、顔も制服も何もかも、目の前にいる男の顔はテレビで映し出された運転手だ。だが、ニュースでは運転手は死亡したと報道されている。救助隊が駆けつけた時にはもう息を引き取っていたと。家族がインタビューを受けているVTRも流れた。

 じゃあ、この人は誰? いや、死んだと思っていたが、実は生きていて、ここに飯を食いに来た。

 はは、と八尋は引きつった笑いを浮かべる。

 それこそ、あり得ない話だ。


 じゃあ、やっぱり本当に亡くなった人。つまり幽霊。


 背筋がぞっとした。悪寒が走り、二の腕に鳥肌が立つ。せっかく、豚汁で身体が温まったのに、違う意味で寒気に身の毛がよだった。

 平沢という男の幽霊と、幽霊が見えてごく普通に会話をしている店主。

 八尋はこの異様ともいえる光景を、信じられないという面持ちで見ていた。


 いや、待て。僕も幽霊の姿が見えているぞ。霊感なんてまったくなかった僕が。今まで幽霊と遭遇したことなんてないし、金縛りにもなったことがない。そんな僕が幽霊を見ている。


 怖くなって八尋は歯をがたがたと震わせた。

 何なんだこの店は、この店主は!

 平沢って人もここに何しに来たのか。それも事故現場は新潟の辺り、そこから歩いて来たのか。それとも幽霊だから飛べるのか。


 平沢はさらに語る。

「私が注意を怠ったせいで、乗客たちを死なせた。これでは死んでも死にきれない。けれど、罪を償いたいのに、私にはもうどうすることもできない」

 店主は真面目に平沢という男の霊の話に耳を傾け、それどころか幽霊を諭そうとする。

「なぜそう思うのです?」

「乗客の中に幼子もいました。私はその子の未来を奪った。母親に抱かれながらバスに乗り込んできたその子は、笑って私に手を振ってくれたのです。その子の顔は今でも忘れられません。なのに、その子を死なせた」

「平沢さん、よく聞いてください。あの事故はあなたの不注意ではありません。避けられなかった災害です。あなたのせいではないのですよ」

 しかし、平沢は頑なに首を振る。


 八尋は息をひそめるようにして自分の存在を極力消し、二人の会話に耳を傾けていた。

「ですが、私はその子を助けられなかった。本当に申し訳なくて」

 根っからの真面目な人なのだろう。

 突然の災害に巻き込まれたのだから、平沢も被害者なのに、死んでもなお、自分のせいだと思い詰めてあの世に行けず、今生をさまよっている。

「何も覚えていないのですね。バスの乗客は怪我をした人はいましたが、平沢さん以外は奇跡的にみな無事だったのですよ」


 え? というように平沢は初めてまともに顔を上げ、目の前の店主をカウンター越しに見上げた。

 もしそれが本当なら、平沢が抱える苦しみも少しは取り除かれるだろう。しかし、八尋は深刻な表情で眉根を寄せ、テレビから流れるニュースに耳を傾ける。

 ニュースを見る限り、事故現場はかなり悲惨な状態だ。もしかしたら店主は、平沢を慰めるために気休めを言っているのかもしれない。

「それに、その子の命を救ったのは、平沢さん、あなた自身なのですよ」

「その子が生きている。それも、私がその子を救った?」

 そうですよ、と店主は微笑む。


「いえ、そんな筈はありません。私はバスの車体に足を挟まれ、その場から一歩も動けなかったのだから」

「平沢さん、思い出してください。雪崩によって押し出され、崖下に落ちたと同時に車外へと投げ出されたその子を、あなたは腕に抱いて暖め続けた。幼子を寒さから守りきった。そのおかげでその子は助かったのですよ」

「私が守った」

「そうです」


 店主に諭されながら、その時の記憶を思いだそうとする平沢の死人のような目に(いや、本当に死人だが)光が戻り始めようとしていた。しかし、平沢はいいえ、と首を振る。

「違います。本当に私は何もしていないのです。その子を救ったのは私ではないのだから。乗客の一人が自分も怪我をしているにもかかわらず、乗客たちを救うために走り回り、励まし元気づけていました。だから、小さな子が助かったのは、その方の勇気ある行動と機転のおかげです。私はその方から子どもを見ていて欲しいと任されただけ」

 平沢は眉尻を下げる。


 真面目なだけでなく、謙虚で慎ましく心の優しい人だ。

 だからこそ、死してもなお、そこまで思い詰める羽目になったのだろう。

「あなたは優しい人ですね」

 平沢はまだ湯気のたつ豚汁に視線を落とし苦笑する。

「いえ、昔からあまり要領のよくない性格で、おまけに運も……」


 神様は不公平だ。

 こんな心根の真っ直ぐでいい人が、死ななければならないなんて、気の毒すぎる。

「今生では残念でしたが、こうして徳を積むことで、きっと来世は幸せな人生を送れますよ」

 店主の言葉に、八尋も心からそうであって欲しいと願った。

「そうですか。期待したいですね。それよりも、本当に幼い子が助かってよかった」

 子どもが救われたと聞かされた平沢の顔に、ほんの少し笑みが浮かぶ。

 さらに、テレビのニュースでは、事故に遭遇した女性が記者たちのインタビューに答える場面が映った。


 その女性は幼い子どもとともに実家に帰るため夜行バスに乗り、雪崩事故に巻き込まれた。その時母親は気を失っていたという。

『救助隊が来るまで娘を胸に抱いていてくれた運転手さんのおかげで、娘は寒さに凍えることなく命を落とさずに済みました。本当に本当に、感謝の言葉もありません。ありが……とう……っ』

 口元を手で押さえ、涙を流しながら、その母親は記者たちの前で泣き出した。

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