9 お別れ
「一樹さんは、僕が最初にこの店を訪れた時に、僕がバスの事故で死んでしまうことを予期していたんですね。だから、僕を引き止めた」
一樹は静かにまぶたを落とした。
憂いを秘めた一樹の表情に影が差す。
「時折、他人の過去はもちろん、未来が視えてしまうことがあります」
以前、一樹が言っていた霊視という力だ。
「視るつもりはないのにその人の未来が映像として流れることが。あの日、この店に現れた八尋くんの数時間後の未来が視えてしまい、引き止めました。本当はそういうことはしてはいけないのですが、なぜでしょう、八尋くんのことを助けたいと思った。ですが、完全に引き止められず、八尋くんを助けられなくて、申し訳なく思います」
八尋はいいえ、と首を振る。
「一樹さんが謝るなんておかしいです。だって、一樹さんは見ず知らずの僕を気にかけてくれた。最期に食べたしょうが焼きは今でも忘れません。それと、チョコレートもおいしかった」
「八尋くんとこうして巡り会えたのは、何かの縁だったのでしょう」
「一樹さんは僕が霊だということを分かっていながらも、今まで僕に付き合ってくれたんですね」
「付き合うという言い方も少し違いますね。八尋くんの記憶が自然に戻るのを待っていました」
自分が死んだことを知って、八尋が混乱しないようにと考えてくれたのだ。
「今は何もかも思い出しました。でも、これから僕はどうなるのですか?」
一樹は黙り込む。しばしの間二人の間に沈黙が落ちた。ややあって、一樹は静かな声で言う。
「本来、あなたがいなければならない場所へ行くべきでしょう」
「それって、成仏するってことですか? 平沢さんや直哉さんや、美優ちゃんみたいに天国に?」
一樹は答えなかった。
ただ、にこりと微笑むだけ。その笑みは何だろうと思うと不安になった。
それって、つまり天国に行けるかどうか分からないってこと。
地獄の可能性もあるということか。ああ、それは嫌だな。できれば、穏やかな気持ちで天国に行きたい。
「八尋くん、最後に何か食べたいものはないですか? 作りますよ」
八尋はぐすっと鼻をならした。
「何もいらないです。僕が天国か……地獄かもしれないけど、あの世に行くってことは一樹さんとこれでお別れってことですよね?」
「それは、あなたしだいかもしれませんが」
僕次第? それはどういう意味だろう。
「成仏しないでここにいることはだめですか? 一樹さんの側にいることは」
それはだめです、というように一樹は首を振る。
八尋はふっと笑った。
潔く自分が死んだことを認めて受け入れなければならない。
「最期の食事か。だったら、またしょうが焼きが食べたいです。あの時食べたしょうが焼き、本当においしかったから。もう一度食べたいと思ったんです。バス事故が起こった現場で力尽きる瞬間も、一樹さんのしょうが焼きが頭に浮かびました。最初にこの店で食べた時も、いろいろ絶望していたけど、一樹さんのしょうが焼きが本当においしくて。生きる希望っていうのが心の底からわいてきた」
「生きる希望とは、大袈裟ですね」
「本当です!」
「では、作りましょう」
「一樹さん、今までありがとう。一樹さんに会えなかったら僕はこうして死んだことすら気づかないままこの世をさまようことになっていたのかもしれない。そう思うと、感謝の言葉しかないです」
ぐずぐずになりながら泣きじゃくる八尋の頭に、一樹はそっと頭に手を置いた。
これで本当に一樹さんとお別れなんだ。
離れたくない。
でも、離れなければならない。
厨房に入った一樹は、フライパンを手にしょうが焼きを作る準備を始める。
軽快にまな板の上で包丁を動かし、見事な千切りのキャベツを切っていく。
いつ見ても一樹の包丁さばきには感心する。この姿を見るのも最後なのだと思うと、八尋は涙が止まらなかった。
「どうぞ」
涙を拭き、八尋はカウンター席に座った。
思えば幽霊でも、においや味覚があるんだな。
一樹の料理を食べてあの世へ行った幽霊たちの顔は、幸せそうだった。
八尋は箸をとる。
これを食べたら僕は成仏してしまう。
あの世へ行くのだ。
一樹さんとも、これでお別れ。
本当はもっと一緒にいたかった。一樹さんのお手伝いをしたかった。
「いただきます」
八尋は箸をとり、しょうが焼きを食べる。
ありがとう一樹さん。最後は笑ってお別れをしよう。
「やっぱり、おいしいです。ありがとう、一樹さん……」
にこりと笑って、八尋は姿を消した。




