8 取り戻した記憶
夢から覚めるように、頭の中で流れていく映像が途切れ、八尋ははっとなって顔を上げた。
目の前では、母がバッグから取り出した茶色い封筒を一樹に手渡している。
「あの子に食べさせくださった食事の代金です。本当に息子のためにありがとうございました。それと、九重さんが有名な霊能者だとお聞きしました。もし、お願いを聞いていただけるのでしたら、あの子が心穏やかになれるよう、お祈りをささげていただけないでしょうか」
「分かりました。八尋くんのために心を込めて祈らせていただきます」
「ありがとうございます」
母はハンカチで目元を拭い、一樹に深々と頭を下げ去って行った。
「待って、母さん!」
と、呼んだところで、自分の声は母には届かない。
姿も見えない、聞こえない。手を前に突き出した状態で、八尋はその場に立ち尽くす。膝が震えた。
やっと、分かった。
分かったのだ。
八尋は手を自分の胸元に引き寄せ、手のひらを見つめた。
青ざめた顔で一樹を見上げる八尋の瞳が揺れていた。
「僕はあのバス事故で……」
八尋は一樹の表情を伺いながら言う。しかし、それ以上の言葉を口にできなかった。
肯定されるのが怖かったのだ。
真実を知りたい気持ちと、そうでない自分に葛藤を抱く。
本当のことを聞いてそれを受け入れられる自信がなかった。
「もしかして、平沢さんが言っていた、救助にあたった青年というのは僕だった?」
静かに頷く一樹の姿に、八尋は唇を震わせた。
その震えを押さえ込むように、唇をきつく噛む。
「記憶を取り戻したようですね」
「じゃあ、今の僕は幽霊?」
八尋は顔を引きつらせた。空笑いがもれる。
冗談はやめてください、と言いたかったが、一樹の顔は冗談を言っている顔ではなかった。
そもそも、まだ短い付き合いで、一樹のことをそれほど詳しく知っているわけではないが、それでも、一樹は冗談を言うような人ではない。
絶望的な事実を突きつけられ、八尋は棒のようにその場に立ち尽くす。
自分はあのバス事故で死んでいた。
こうして会話をし、ご飯も食べて、普通に生活しているというのに、それなのに自分はすでにこの世にはいない存在だった。
平沢さんや直哉さん、美優ちゃんのように。
そんなこと認めたくない。
そう思いながらも、まざまざと脳裏によみがえるバス事故の光景。あれは夢だったとは思えない。
「でも僕……ちゃんとこの店で働いていたし、接客もしましたよね?」
自分でも往生際が悪いと思った。
死にたくない。
やりたいことはまだある。
だから、生きていたい。
いや、やりたいことがあると胸を張って言えるようなことなど、僕にはあったっけ?
「いいえ八尋くん、よく思い出してください。八尋くんが直接会話をした人たちはみな、この世の人ではない幽霊でした。私ともう一人を除いて、八尋くんは生身の人とは喋っていないのですよ」
八尋は泣きそうな顔で眉根を寄せ、そんなことはないと激しく首を振る。けれど、一樹の言う通りだ。
八尋は『想』に訪れる前のことを思い出す。
行く当てもなく、これからどうしようと思いながら歩いていた八尋は、横断歩道を渡ったところで漂ってくるにおいに引かれ立ち止まった。
人混みの中で立ち止まっても、誰も八尋に文句を言う人はいなかったし、ぶつかっていく人もいなかった。それは八尋が霊だったから。
それから、『想』にやって来たバス事故で亡くなった平沢さんの幽霊。
今まで幽霊とか霊的なことなどこれまでいっさい感じたこともなかった八尋だが、この時初めて平沢の幽霊を見た。
自分が突然霊感体質になったのだと思ったが、そうではなく、八尋自身が幽霊だったからだ。それなのに、幽霊を視てしまったと恐れていた自分の愚かなこと。
次はご主人を、通り魔事件で亡くした溝口深雪がこの店にやって来た時。
不安そうな顔で店の扉を開けた深雪に八尋は声をかけたが、彼女はまったく反応を示さなかった。
てっきり、また幽霊がやってきたのだと思って、八尋は気にもとめなかった。
確かに一樹の言う通り、八尋は深雪とはいっさい会話をしていない。だがその後、一樹に同行し通り魔事件が起きた現場に行った時は、深雪の旦那さんの直哉と実際に会った。
直哉は妊娠した妻のために神社でお守りを買い、それを落として探していた。八尋は彼のお守り探しを手伝った。
「あ……」
と、八尋は声をもらす。
あの時、あんなに人通りの多いところで這いつくばるようにして探し物をしたら、通行人たちに変な目で見られるなあと心配したが、誰も何も気にかけることも、声をかけてくる者もいなかった。
探し物に夢中で周りの視線など忘れていたが、そもそも幽霊となった直哉や自分があの場所をうろうろしようと誰も気に止める者はいない。
幽霊である自分たちなど誰の目にも映らないのだから。
だから、一樹は八尋をあの現場に連れて行き、直哉の探し物を手伝わせた。
納得だ。溝口深雪のことも、今思えば八尋が勝手に話しかけていただけで、会話は成り立っていなかったではないか。
次は父親に虐待を受け、殺されて幽霊となった美優が店にやって来た時と、美優の母親である。
八尋は美優とは話をしたが、香奈の場合は、やはり八尋が一方的に喋りかけていただけだ。
ああ、そうか、と八尋はその時抱いた疑問が解ける。
ずぶ濡れになって店を訪れた香奈にタオルを渡そうとした八尋に、一樹は自分が用意するからと言った。
幽霊の八尋が生身の人間にタオルを差し出すことはできないから。
事故の記憶を取り戻していない八尋が、自分が幽霊だということを気づかせないための一樹の配慮だ。
八尋はふっと笑った。
今思えば、不可解に思ったことは他にもあったではないか。
一樹の手伝いで醤油差しに醤油を補充する作業をした時もそうだ。
その後入れたはずの醤油差しに一樹が醤油を入れていたのを見て、なぜだろうと疑問に思った。
それから、とったはずのさやえんどうの筋が何も手がついていない状態だったことも。きちんと作業をこなしたつもりでも、結局、幽霊の八尋には何もできないのだ。
「あれ? でも!」
八尋ははっとなって顔を上げ一樹を見る。
「待ってください! だって僕、夕子さんとはちゃんと話をした。彼女も僕のことを見て答えてくれたじゃないですか! それに、早く仕事が見つかるようにって励まされました」
自分が死んだことを認めたくなかった。一樹は悲しそうな目で八尋を見返す。
「言ったでしょう。彼女にも霊感があると」
確かに、夕子は少しばかり霊感があると言っていた。
幽霊が少しだけ視えて話せると。
八尋はがくりとを落とした。自分が死んでいるという事実を覆すことはできなかった。
認めなければならない。
「夕子さんは、幽霊の僕と会話をしていたんですね」
夕子さんのお店に行った時、黒服の男が八尋の前にコーヒーを差し出しながら、怪訝な顔をしていたのはそういう意味だった。
夕子の指示とはいえ、誰もいないテーブルに、男はコーヒーを置いていたのだから。
それだけではない。
一樹の元にホステスの女性たちが寄ってきて騒ぎ、八尋はいっさい見向きもされなかったのもそういう理由だ。
もっとも、僕が幽霊でなくても、一樹のように騒がれることも注目されることもなかっただろうが。そして、その時、夕子が言った『八尋くんも、早く見つかるといいわね』というのは、早く仕事が見つかるといい、と励まされたのだとてっきり八尋は思っていたが、実はそうではなかった。
早く自分の記憶を思い出せればいい、あるいは、自分が幽霊だということに気づくといいわねと言ったのだった。




