エピローグ
季節は移り変わり、町は春らしい雰囲気に包まれ始めていた。
道路の両脇に植えられた桜の木が、ほんのりと薄紅色に色づいている。もうじき開花を迎えるだろう。
吹く風も刺すような冷たさはなくなり、重たいコートを脱いだ人々の歩みは軽やかだ。
そしてここにも一人、風を切り、足取りを弾ませながら早歩きで信号を渡る青年がいた。
いや、弾んでいるのは歩みだけではない。
もうすぐ目的の場所に辿り着くと思うだけで、期待と緊張で心臓の鼓動が弾んだ。
大通りから一つそれ、路地裏に入った所にある小料理屋を見つけ、ほっと胸をなでおろす。
泣きそうになった。
夢でも何でもなく、間違いなくそこに店はあった。
小料理屋『想』。
外観も看板も足元にある行灯も、何もかも変わらない。記憶にあるままの姿だ。
店の前に立った青年は、深呼吸をして『想』の扉に手をかける。
ゆっくりと引き戸を引き、開いた扉から中を覗うと、やはり、変わらず、背の高いイケメン店主が、カウンターの向こうの調理場で、料理の仕込みをしていた。
「いらっしゃいませ」
耳に心地よい穏やかな声で客を出迎えるのも、記憶のままだ。何一つ変わっていない。
「一樹さん。僕です八尋です!」
片手で暖簾を押し、軽く腰をかがめて店の中に足を踏み入れる。八尋は深く一樹に向かってお辞儀をした。
一樹は、にこりと微笑んだ。
八尋が訪ねてきたことに驚く様子もみせない一樹だが、それは必ずここに戻ってくると信じていたからだろう。
自分が幽霊だったと自覚した八尋に、最後に食べたい料理をと思い、しょうが焼きを出してくれたのは三ヶ月前。
しょうが焼きを食べたら、平沢や、直哉、そして、美優のようにあの世へと行くことになるのだと覚悟していたのに、八尋が次に目覚めたのは天国でも地獄でもなく、現実世界。真っ先に飛び込んだのはシミ一つない白い天井。
病院のベッドの上だった。
てっきりバスの運転手、平沢さんと同じくあの事故で死んだのだと思っていた。
死者はこの世に止まることはできないと一樹に諭され、彼との別れを惜しみ、泣きながらしょうが焼きを食べていたあれは何だったのか。
食べ終えてしまうと成仏してしまう。だから食べ終えたくない。でも、美味しすぎて箸が止まらない。そんなことを思いながら泣きながら食べたしょうが焼き。今思い返すと本当に間抜けだ。
「この店のことも私のことも、忘れないでいてくれたのですね」
「あたりまえです。忘れるはずがありません!」
八尋は一樹の前のカウンターに座った。
「だけど一樹さん、ひどいです。僕はあのバス墜落事故で死んだのかと思っていました」
そう、八尋は奇跡的に助かったのだ。しかし、発見された時は瀕死の状態であった。 病院に搬送され危うく一命は取りとめたものの、意識を取り戻すことがなくずっと病院のベッドで眠ったままの状態であった。
その間、八尋の魂は自分の身体から抜け、この世をさまよい導かれるように『想』へ訪れた。
その時の八尋は、事故のことも忘れ、自分が幽体であるとはまったく気づくことなく、まるで生きている時と同じ感覚でいたのだ。
ひどいです、と八尋に言われた一樹は首を傾げた。
「おや、私は平沢さんがここを訪れた時に言ったはずですよ。あのバス転落事故で、平沢さん以外の死者はいないと。覚えていませんでしたか?」
「あ……」
と、八尋はアホのように口を開けた。
確かに言った。
間違いなく言った。だけど、ちゃんと教えてくれてもいいのに。と、抗議したいところだが、勝手に死んだと思い込んでいたのは自分だ。
言い返したくとも言い返せず、不服そうに八尋は唇を尖らせる。
一樹さんって、実は意外にドSですか。
何だか一樹の微笑みが悪魔の微笑みに見えてきたぞ。
そういえば夕子さんも言っていたじゃないか。
昔の一樹さんは、ぎらぎらした性格で金、地位、権力と己の欲望を満たすために、わりと冷酷なことにも手を染め、同業者からも恐れられてきたと。
全然、そんなふうに見えないんだけどな。
「じゃ、じゃあ、本来、僕がいなければならない場所へ行けと言ったのはどういう意味です?」
「病院で眠っている自分の身体に戻りなさいと言ったのですよ。長い間幽体となって本体から離れているのは、本当は危険なことなのです。戻れなくなってしまうこともあるのだから」
八尋は顔を青ざめさせた。
それは初耳です。
戻れて本当によかった。
「僕はてっきり、あの世へ行けとばかりに言ったのかと思いました」
「早とちりですね」
「それじゃ、一樹さんにまた会えるかと聞いて、僕次第だと言ったのは?」
「八尋くん」
一樹は静かな声を落とす。
「はい」
「意識を取り戻しても、幽体となってここで過ごした時のことを覚えている可能性は少ない。八尋くんの方が私を忘れてしまうかもしれないと思ったからです」
八尋はふっと息を吸い込んだ。胸の奥にずきんとした痛みが走る。
僕が一樹さんのことを、ここでの出来事を忘れてしまうかもしれなかった。
そう思うと身体が震えた。
いや、事故を起こす前にここへ立ち寄り、親切にしてもらったお礼に伺っていたかもしれないが。
一樹さんと過ごした日々のすべてが記憶から消えていたら、それまでだった。
よかった。一樹さんのことも、この店のことも忘れなくて本当によかった。
こうして生きて一樹さんに再会できて、神様ありがとうと叫びたい。
「僕がここに来るの予想していましたか?」
一樹は半分まぶたを落とした。まぶたを縁取る長いまつげが憂いに揺れる。
「さあ、半々でしょうか。いいえ……」
一樹は緩く首を横に振った。
「信じていましたよ。八尋くんがまたこのお店に来てくれると」
一樹が自分のことを気にかけてくれていた。またここに来てくれるのを待っていてくれていた。
そう思っただけで嬉しかった。だから、改めて信じていると言われて照れくさい気がした。
「八尋くん」
「はい?」
「おかえりなさい」
八尋は驚いたように目を見開いた。
おかえりなさい。
一樹のその一言で、何もかもすべてが吹っ飛んだ。
「そうだ、一樹さん何か食べさせてください。もちろん、今日はちゃんとお金を持ってきました」
「では、快気祝いということで、ご馳走しましょう」
「本当ですか! じゃ、遠慮なくご馳走になりまーす!」
「何が食べたいですか?」
「それは、もちろん!」
(了)




