11 夕子さん再び
そんな話を一樹としていた土曜日の午後、思いがけない人物が突然店を訪れ八尋は驚いた。
現れたのは銀座のクラブ『雪花』の夕子ママだ。
今日は艶やかな着物姿ではなく、デニムに白いシャツ、スニーカーという驚くほどシンプルな装いであった。
メイクもクラブで見た時よりもナチュラルだが、元々の顔の造作と透明感際立つきめ細やかな肌のため、美しさは変わらない。
飾りっ気一つない姿であったが、それでも夕子は魅力的で、色香を漂わせていた。元々持っている自分自身の良さを上手に活かしている。
自分を知り尽くしているのだろう。素朴な雰囲気が夕子の美しさを際立たせている。つまり、美人はどんな姿をしていても、美しいということだ。
「夕子さん! いらっしゃいませ!」
夕子が店に入ってくると、一瞬にして場が華やかな空気に満ちあふれた。やはり、銀座のクラブを経営しているだけあり華がある人だ。
もちろん、一樹もその容貌からして存在感が半端ないが。
それに比べて僕は何て影が薄いのだろう。
「夕子さんいらっしゃい。お店に寄ってくださるなんて珍しいですね」
「この間のお礼に、ご馳走をしてくれるのでしょう」
「ええ、もちろん。それなら、ちょうどよかったです」
夕子はカウンターに座り、顔を傾け八尋を見る。
「こんにちは。八尋くん」
「こ、こんにちは」
女神のような夕子の微笑みに、八尋は顔を赤くする。
「八尋くんはまだいたのね」
八尋ははは、と頭を掻きながら笑う。もちろん、夕子は深い意味もなく、それこそ挨拶代わりに何気なく言ったつもりだろう。しかし、八尋は夕子の言葉に勝手に傷ついて落ち込んだ。
そうなのだ。いまだに仕事が決まらず、一樹さんの厄介になっている状況なのだ。
「なかなか仕事が見つからなくて」
何しろ応募しようにもなかなか面接にまでたどり着けないのだ。こんなご時世とはいえ、情けないにも程がある。
「この間探していた東山香奈という女性は、その後どうなったのかしら?」
言って、夕子は軽く肩をすくめた。
「あまり他人の事情に首を突っ込むつもりはないけれど、事件のことをニュースで知って気になっていたの。もし、彼女が困っているなら、手を貸してあげられるかもと思ったのだけれど」
「夕子さんらしいです」
「まあ、私も子どもを持つ母親だった時期もあったから、彼女のことが他人事に思えなくてね」
「え! 夕子さんお子さんがいたんですか!」
八尋は目をまん丸くして、驚いた声を上げる。
「あら、そんなに驚くこと?」
「いえ、だって、夕子さんって、おいくつなんですか!」
「まあ、この子ったら、女性に歳を聞くなんて」
「す、すみません! とても若く見えるから。お子さんがいるようには見えなくて」
「あら、八尋くんはとっても良い子ね」
と、言われてなぜか照れて赤くなる。
だが、ふと先程の夕子の言葉が気になった。
確か夕子さんは、子どもを持つ母親だった時期もあったと言った。ということは、今はどうなのだろう。
その子はどうしたのか。しかし、それ以上は聞いてはいけないのだと思い八尋は口を閉ざす。
「香奈さんは、夜のお仕事はやめたそうですよ」
「そう。彼女にとってはそれがいいかもしれないわね」
それ以上、一樹も何も言わなかったが、香奈は夜の仕事を辞め、実家に戻り虐待で苦しむ子どもたちを助ける仕事につきたいと言っていた。
そのためにも資格試験をとるのだと。
美優ちゃんのことに関しては、立ち直るにはまだまだ時間がかかるだろう。けれど、彼女は前を向いて歩き出した。
いつかまた、このお店に訪れてくれたらと、そう願わずにはいられない。
「あら、いいにおいがしてきたわ。何を食べさせていただけるのかしら。楽しみね」
一樹の手元を覗き込む夕子は、無邪気でまるで子どものようだと思った。
「運良く、よい真鴨が手に入りましたので」
「それで、さっきちょうどいいって言ったのね」
「ええ、どうぞ」
一樹は夕子の前に料理を出す。
不思議だと八尋は思った。
まるで夕子がこの店に来るのを予期していたようだ。
前々から感じていたが、一樹は勘が鋭い。
それも霊感が人より鋭いからだろうか。まるで予知能力もあるのでは、と思ってしまうときがある。
「あら、治部煮ね。蒔絵を施した輪島塗の器も素敵だわ」
出された料理は、治部煮という加賀の郷土料理だ。
薄手で広口の底が浅い治部椀という漆器で供されるもので、だし汁に醤油、砂糖、みりん、酒をあわせ、季節の野菜、今回は竹の子にしいたけ、ふきとスダレ麸を煮て汁に葛でとろみをつけ、仕上げに天もりのワサビを添える料理だ。
素朴な料理ながらも、蒔絵が施された漆器に盛り付けているため、豪華さを感じさせる。
「こちらもどうぞ。加賀太きゅうりのひすい煮です」
盛り付けに使われた器は、模様ひとつないシンプルすぎるもの。
どこにでもある、それこそ百均で売られている皿かと八尋は思った。しかし、夕子の驚いたような反応を見た八尋は、その皿が、そんじょそこらの皿ではないのだと悟る。
「まあ、黄磁釉」
おうじゆう? なんだそれ?
聞き慣れない言葉にきょとんとしている八尋に対し、一樹はよくご存知でというように微笑む。
「素敵な器でお料理をいただけるなんて、嬉しいわね」
「それ、そんなにすごい食器なんですか?」
器の価値が分からない八尋に、夕子は説明をする。
「シンプルだけれども、黄磁釉による透明感と上品さを醸し出しているでしょう? 宮内庁御用達の窯元よ。このお皿一枚で驚くほどのお値段なの」
「そ、そ、そうなんですか?」
宮内庁御用達と聞いただけで、恐縮してしまう。
「だから取り扱いには注意してね」
「は、はい、気をつけます!」
そもそも、治部煮を盛った蒔絵を施した輪島塗の漆器に、百均の器はあり得ないのだ。
前々から思っていたけれど、お料理はもちろんだが、それと同じく器にもこだわっているのだなと思った。
カウンターの後ろにある食器棚に並ぶ器たちは、お料理やお客様の雰囲気に合わせて選ばれているのだ。
確かに翡翠色をした加賀太きゅうりに黄色みがかった器が、こっくりとした治部煮とは対照的に、見た目にも爽やかな印象を与える。
「いただきます」
夕子は治部煮椀を引き寄せ蓋を開けた。
椀の中で蒸されていた白い湯気が、熱気を放ち立ちのぼる。治部煮は椀に盛り付ける時、鴨肉が完全に火が通っていない状態にしておき、食べようとする頃、肉のたんぱく質が固くならず、おいしくいただけるよう計算された調理法で供される。
まずは、とろみをまとった鴨を箸で取り口に運ぶ。
蓋を開けたばかりの鴨はまだあつあつのため、夕子はふうと息を吹きかけ冷ます。
手に入りにくい真鴨を偶然手に入ったと一樹は言ったが、この間の礼もあり夕子に食べてもらおうと思って仕入れたのだろう。
食べやすい大きさにそがれた鴨を、口の中に入れた。
「おいしい」
と、夕子は呟く。
柔らかい鴨肉からあふれる旨味は優しく、素朴ながらも品がある。懐かしい味に遠く離れた郷土のいや、母の味を思い起こさせた。
目を閉じると、母の面影すら思い浮かぶようだ。
肉の旨味を閉じ込めた汁は身体も温まる。薬味として盛ったわさびは、ぴりっとした辛みの向こうに、爽やかさを感じさせ、鴨肉と調和している。
ぴんと背筋を伸ばして座る姿は凜とした美しさがあった。箸使いも品のよさを感じられ、彼女の食べる姿に八尋は見とれた。
次に夕子は翡翠煮に手をつける。
加賀太きゅうりを薄く皮をむき煮た料理だ。その名の通り、すき取った翡翠色をしている。
「故郷を思い出すわ」
夕子は一樹の料理に視線を落とす。
「もう何年も実家に帰っていないわね。久しぶりに母の手料理が食べたくなってきた」
独り言のように言う夕子に、一樹はただ黙って微笑むだけであった。
それはそうと、夕子さんと一樹さんの関係はなんだろう。
とても親しくしているように見えるが、恋人という雰囲気でもない。もしかして元恋人とか?




