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心霊食堂 ― 旅立ちは思い出の味で ―  作者: 島崎紗都子
第3章さよならの、オムライス

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9 信じていたよ

 香奈が夫とともに住んでいたアパートは、香奈が働いている勤め先から、電車に乗って一時間の隣の県にあった。

 最寄りの駅で降り、十五分ほど歩いた静かな住宅街にある一棟のアパートの近くまで来ると、香奈は足を止めた。


 アパートに近づくにつれ、香奈の表情が強ばっていく。

 さらにその顔はひどく青ざめていた。

「あそこに見えるアパートがそうです」

 アパートを見つめながら、香奈は身体を震わせた。

「二階の右端ですね」

「え?」

 なぜ、部屋が分かったのかというように、香奈は目を見張らせた。

「行きましょう」

 一樹はいつになく厳しい表情で、速歩でアパートへと向かっていく。


「どうして香奈さんの部屋が分かったんですか?」

 一樹の後を追いかけ八尋は問いかける。

「よくない気配が漂っています。気分が悪くなるほどのどす黒い靄のようなものがあの部屋からあふれている」

 黒い靄があふれていると聞き、八尋も目を細め見極めようとする。

 八尋はあっと声をもらした。

 一樹の言う通り、香奈の部屋から黒い靄が吹き出しているのが視えた。


「大変……は、早くあの場所から美優ちゃんを救わなければ」

 八尋の声に切実なものがにじむ。

 アパートの部屋には明かりがついていた。

 香奈から話を聞くと、夫は相変わらず家でごろごろしているらしく、出かけるといえばパチンコと、友人に誘われて飲みに行くくらいだという。

 そのパチンコ代や飲み代も、香奈が働いたお金で行っているのだ。

「美優……」

 香奈は胸の辺りで手を組み、娘の名前を呟く。


「香奈さん」

 一樹の呼びかけに香奈は扉の前に立つ。

 震える手でインターホンを押した。

 いらえはない。

 けれど、中から大音量のテレビの音と、その音に混じり誰かと会話をしている声も聞こえてくる。

 間違いなく香奈の夫は家にいる。

 もう一度、香奈は呼び鈴を押し扉を叩く。


「私よ。開けて! 美優、ママよ。迎えにきたわ!」

 しばらくして、がちゃりと鍵を外す音が鳴り、薄くドアが開かれた。

「なに?」

 開いたドアの隙間から、男がぎょろりとした目で外を窺う。

 よれよれのスウェットに不精髭をはやした三十代前半の男。

 この男が香奈の夫だ。


「美優を迎えに来ました」

「ああ?」

 男は吸っていた煙草の煙を吐き出した。

 その煙が香奈の顔にまともにかかる。げほげほと咳き込みながら、香奈は家の中に入ろうとするが夫に押し戻された。

「うっせえな。出て行ったんだろ? だったら、戻ってくんな!」

「ええ、出て行きます。美優を連れて! 剛志どいて!」

「ねえ、ちょっとーだあれ? なに騒いでんのよぉ」

 部屋の奥からはすっぱな女の声が聞こえてきた。奥の部屋から下着姿の若い女がこちらの様子を窺うように覗き込んでいる。香奈の夫の新しい女のようだ。


「開けて!」

「しつけえな。殴られてえのかよ!」

 騒ぎを聞きつけて、近所の人たちが窓から顔を出して様子を見に来たり、玄関先に出て遠目で眺めたりしている。

「美優を返して!」

「美優なんていねえよ! とっとと帰れ!」

「待って!」

 香奈を突き飛ばし、ドアを閉めようとしたわずかな隙間に一樹は指を差し込むと力一杯開いた。


 ドアが一気に開かれ、中にいた香奈の夫剛志は、前につんのめって倒れ込んだ。

 うわ! 一樹さんが強引な行動に出た。

 開いたドアから香奈は家の中へ靴のままあがり、奥の部屋に駆け込む。

「美優、美優どこ! 迎えに来たわ、ママよ! 美優!」

 香奈は大声を上げ娘の姿を探し回った。

 すぐそばで下着姿の女がぽかんとした顔で立っている。けれど、いくら探しても美優の姿は見当たらない。


 1DKの狭いアパートだ。

 探せないはずはない。

「どこなの、美優!」

 香奈は血相を変え、トイレや風呂場の扉も開け美優の姿を探した。

「ちょっとー、なに、この女」

 夫の浮気相手が、冷めた目で家の中に押し入ってきた香奈を見つめている。とはいっても、ここは香奈の家なのだが。


「てめえ! どういうつもりだよ!」

 殴りかかってこようとこぶしを握り、腕を振り上げた。

「やめろ!」

 八尋は部屋に飛び込み、男の暴力から香奈を守ろうと両腕を広げた。

 男の拳が振り下ろされ八尋はぎゅっと目をきつく閉じる。

 殴られる。

 しかし、いつまでたっても衝撃はなかった。

 八尋は恐る恐る目を開ける。


 目の前で男が拳を振り上げた状態で固まっていた。

 背後で一樹が男の腕を掴んで止めていたのだ。

「一樹さん!」

「てめえ、何すんだよ……っ! いててっ、くそ、離せよ!」

 後ろ手で腕をねじり上げられ、男は涙目になりながら情けない悲鳴を上げる。

「待った待った! 分かったからこの手を離せ!」


 一樹が手を離した途端、剛志は痛みに顔を歪め腕を押さえてその場に座り込む。

 八尋はあわあわとうろたえる。

 うわわ! 一樹さん、見た目によらず強い。僕の助けなんてまったく必要ないではないか。って、感心している場合ではない。

「美優はどこにいるの?」

 剛志はにたりと笑う。

「だから、ここにはいねえって言ってんだろ! おまえに置いて行かれたショックで家出でもしたんじゃねえのか?」

「あんな小さな子が、一人で家を出ていくはずがない!」

 まだ一樹にねじり上げられた腕が痛むのか、剛志は身体をくの字に曲げ痛みをこらえている。


「知らねえよ。誰かに連れ去られたのかもな。てか、さっさと帰れよ! そこのおまえも!」

 おまえもと言って、男は一樹を指さす。

「人ん家にあがりこんできやがって、家宅侵入罪だ! 警察に訴えるぞ!」

「家宅侵入罪じゃなくて、住居侵入罪だから」

 八尋はぽつりと言う。

 いや、今はそんな突っ込みはどうでもいい。


「美優、どこにいるの。美優……ううっ」

 敷きっぱなしの布団の上にへなへなと崩れ込み、香奈は娘の名前を呟く。

「香奈さん」

 八尋は目を見開いた。涙を流す香奈の側に幼い少女が立っていた。

 美優であった。

「美優ちゃん……」

 泣き崩れる母親の頭を美優が優しく撫でていた。

『ママ、美優はここにいるよ。ねえ、泣かないでママ』

「美優ごめんね。ママを許して。美優を置いて自分だけ逃げたママを」

『どうしたの? ママちゃんと迎えにきてくれたじゃない。美優、嬉しいよ」

「一樹さん! 美優ちゃんがそこに」


 一樹は静かに頷き、幽体の美優に歩み寄る。

 どんなに探しても美優の本体が見つからない。けれど、この部屋のどこかに美優はいるはず。

 一樹は美優に微笑むと、心の中で語りかけた。

『美優ちゃん、私のことを覚えているかな?』

『ハンバーグのお兄さんだ。ねえ、ママが泣いているの。それに美優のことが分からないみたいなの。どうして?』

『美優ちゃん、もう少しだけ待っていてね』

 そう言って、一樹は押し入れに向かって歩き出す。すると、剛志は顔色を変えた。

「お、おい! 何するんだ!」

 押し入れを開けると、中に詰め込んでいる物を掻き出すように出していく。瞬く間に床の上に押し入れに入っていた物が積み上がっていく。


「勝手に人の物に触るんじゃねえよ!」

 明らかに剛志の様子がおかしい。

 顔が青ざめている。浮気相手の女は何事かというようにぽかんとした顔で一樹の行動を眺めていた。


 ある程度の物を出した一樹は、押し入れの段に足をかけ登った。

 天袋に手をかけ、板を押し開ける。

「うっ」

 八尋の唇から呻き声がもれた。

 ぷんと、凄まじい異臭が漂ってきた。

 腕を顔に持っていき鼻を強く押さえ込んだ。

「やだ、何このにおい! ちょー臭いんだけど!」

 剛志の浮気相手である女は、顔をしかめて鼻に手を当てる。


「や、やめろ! そんなとこに美優はいねえよ!」

 一樹は押し入れの天井板、点検口を持ち上げる。

 さらに強烈な異臭が部屋へと流れ込んできた。ぶんという音が聞こえる。数匹のハエが光のある方へと天井裏から部屋へと飛んでくる。

 口元に手を当て首をつっこむと、天井裏にクーラーボックスが置いてあるのを見つけた。

『見つけたよ。美優ちゃん、待たせてごめんね』


 一樹は上着のポケットから数珠を取り出し、手を合わせた。

「美優!」

 香奈は悲鳴を上げ押し入れの上を見上げる。剛志は虚脱したように肩をおろし、うなだれた。

「な、何か部屋が臭いって思ったのよ! でも……まさか……あたしは知らないよ。全然関係ないからね! 本当に知らないんだから!」

 女は着るものやバッグを引っつかみ、逃げ出すようにアパートを出て行った。


『ママ』

 美優が香奈の服の裾を引っ張っている。

「香奈さん、側に美優ちゃんがいますよ」

「美優が?」

「はい。心配そうに香奈さんを見上げています」

「美優が私の側に?」

「はい」

「どうか、声をかけてあげてください」

 香奈の目から涙があふれ落ちる。


「美優、ごめんね。ママ、美優のことを置いていってしまって」

 すると、美優はううん、と首を振った。

『ママが迎えに来てくれるって、美優は信じていたよ』

「ごめんね。美優……」

『ママ、痛くない? いつも美優をかばってたくさん怪我をしたでしょう? 大丈夫?』

「本当にごめんね」

『泣かないでママ。ねえママ、美優お腹空いたな。とってもお腹が空いたの。ママの作ったオムライスが食べたいな。前にママが作ってくれたオムライス。最後にまた食べたいな。一緒に食べよう』


 あふれる涙をこらえられず、八尋は泣きながら香奈の姿を見つめていた。

 せっかく美優ちゃんと会えたのに、どうして、こんな悲しい結末になったのだろう。けれど、二人が一樹の店にやって来なければ、こうして母娘は会うこともなかった。

 八尋はスマホを取り出した。

「け、警察……」

 警察を呼ぶため電話しようとしたが、手が震えてなかなかかけられない。

 八尋の手に一樹の手が重ねられた。見上げると一樹が首を振る。

「私が電話をしましょう」


 一樹の言葉に一気に緊張が解け、八尋はその場に腰が抜けたように座り込む。

 その後、警察の調べによると、美優は一ヶ月前に亡くなっていたことが分かった。

 父親から暴力を受け、泣き声が外にもれないよう口にガムテープを貼られ、さらに、何週間も食事を与えられず放置され、洋服も着せてもらえず、寒空の中、下着姿でベランダに何時間も放置されたこともあったという。


 父親に受けた暴力によって命を落とした美優の遺体は、布団圧縮のビニールに入れられた状態で大きなクーラーボックスに押し込まれ、天井裏に放置されていたのだ。天井裏には無数の脱臭剤が置かれていた。

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