6 運が良ければ
「まさか、娘にまで危害を加えるようになるなんて」
女性はその時のことを思い出したのか、唇を震わせた。
「今では夫は働くこともなくなり、ギャンブルに興じ、外で女の人を作るようにもなりました。私が水商売を始めるようになったのも、夫のギャンブル代のため。お金があればあの人は機嫌良くしていてくれるから。だけど、最近の夫の暴力は増すばかりで、何度も殺されるかと恐ろしい思いをしてきました」
女はいったん言葉を切り、それから続けた。
「ある日、仕事でいつもよりも帰宅が遅くなった私に腹をたてた夫は、突然怒りだし包丁を持って暴れだしました。いよいよ殺されるかと恐れた私は、あまりの怖さに娘を置き去りにして家から逃げ出したんです。私は……母親失格です。その後、娘を迎えに何度か家に戻ったのですが、夫は娘に会わせてくれず、私を家にあげてもくれません。それどころか、家には別の女がいて、私はいつも追い返されて……」
女はしゃくり上げるように泣き出す。
「娘とはもう一ヶ月以上、会っていません」
八尋の胸がざわついた。
鼓動が速くなる。一樹を見るが、彼は落ち着いた態度で女性の話に静かに、口を挟むこともなく耳を傾けていた。
「娘を夫の元から連れ出さなければと思っているのですが、家にいれてもらえない限りどうすることもできません。もちろん、何度も警察に行こうと思いました。でも、怖くていつも入り口で引き返してしまいました。どうしても行けなかったんです。警察に行けば娘を殺すと夫に脅されていたから」
八尋は怒りのあまりばんとカウンターを叩いた。あまりにも彼女も美優ちゃんもかわいそうだ。
「ひどすぎます!」
「辛いですね。それに、娘さんも心配です」
「はい……」
「ご主人の元に、一緒に行ってくれる人はいないのですか? 他に頼れる人は?」
「何なら、僕が付き合いましょうか!」
話を聞いていた八尋はたまらず申し出るが、女は首を振る。
「いいえ。恥ずかしながら頼れる人は誰も。こんな時に親身になって相談できる友人すらいないことに気づいて……情けないです。でも、娘を返してもらうため諦めずに何度も夫の元へ行くつもりです」
女はバッグを手に立ち上がった。
「ごちそうさまでした。お話を聞いてくださってありがとうございます。だいぶ気持ちが落ち着いた気がします」
女は会計をしながら、一樹に問う。
「あの……メニューにはない薬膳料理を作ってくださったのは、私の調子があまりよく見えなかったからですか?」
「余計なことだとは思いましたが、心配だったので。そして、余計ついでにもう一つ、私が一緒にご主人の元へ行きましょうか? 娘さんのことが心配です」
「もちろん、僕も一緒に行きますよ!」
八尋は手をあげ、意気込んで言う。女性のことも気がかりだが、美優を救いたいという気持ちが強かった。
「いいえ、ありがとうございます。気にかけてくださって感謝しております。それでは……」
女は扉に手をかけ店から出て行こうとする。扉を開けた途端、激しく降る雨音が聞こえてきた。
「待って、傘! 一樹さん、傘を渡してもいいですよね!」
と、八尋は休憩室にある傘を引っつかみ、店を出て行った女性を追いかけようとしたが、すでに女の姿は人混みにまぎれ見つけられなかった。
「行っちゃった。傘、持っていなかったのに、風邪をひかないといいけど」
八尋は仕方なく店の扉を閉め、手に残されたビニール傘に視線を落とす。もっと早く気づけば傘を渡せたのに。気の利かない自分が嫌になる。
八尋は傘を休憩室へ戻し、一樹の正面のカウンターに座った。
「一樹さん、この間店に来た女の子、美優ちゃん。あの子は間違いなく今の女性の子ですよね」
だとしたら、美優はすでに亡くなっている。
その現実を彼女が知ることになったらと思うと心が痛い。
言葉もなく一樹は悲しそうに瞳を落とす。それだけで答えはじゅうぶんであった。
「娘を取り戻すために何度も夫の元に行って……美優ちゃんが亡くなったことを知らず。一樹さん、何とかしてあげられないでしょうか?」
一樹はいいえ、と首を振る。
「八尋くん、残念ですが、これ以上は私には何もできません。彼女が私に依頼をしてきたのなら話は別ですが」
「なら、どうして美優ちゃんのことを話さなかったんですか?」
「美優ちゃんがこの店を一人で訪ねて来たと言うのですか? 幽霊となって」
一樹の言葉に八尋は言葉を詰まらせた。
一樹の言っていることは間違っていない。
確かに彼女はここへやって来たが、自分や娘を助けて欲しいと依頼してきたわけではない。
八尋はしょんぼりと項垂れた。
分かってはいるが、何とかしてあげたいという気持ちがいまだ諦められずにいる。
そんな八尋の姿を見た一樹はふっと口元に笑みを刻んだ。
「そうですね。きっと、美優ちゃんも早く母親に会いたいと思っているでしょう」
「一樹さん!」
嬉しそうな表情で八尋はばっと顔を上げた。だが、すぐに表情を曇らせる。
「でも、さっきの女性をどうやって探せばいいのか」
八尋は腕を組み、うーん、と唸る。
「彼女、新宿で働いていると言ってましたね。探してもらいましょう」
「探す? 誰に? どうやって?」
一樹はスマホをとり、どこかへ電話をかけ始めた。
電話の相手は会話の雰囲気からして女性のようだ。しばらく、相手と他愛ない話をしていた一樹は、探して欲しい女性がいると言って、女性の姿格好を伝え電話を切った。
「どこに電話をかけてたんですか?」
「彼女を見つけてくれるかもしれない方に心当たりがあったので、お願いしてみました」
「さっきの女性は見つかりそうですか?」
「そうですね。運が良ければ見つかるでしょう」
運がよければ。
一樹の曖昧な答えに八尋はどこか納得のいかない思いを抱く。
つまり運が悪ければ女性を探すことはおろか、亡くなった美優は母親に会えないかもしれないということだ。
期待はしていなかったが、後に八尋は一樹が以前言っていた。
この世界は遠回りをしているようで、実は意外に無駄がないという言葉を改めて実感するのであった。
それから一週間が経ったが、例の女性が再び店を訪れることはなかった。もちろん美優も。
一樹も女性のことを探してみると言って、電話で誰かに頼んだようだがいまだそれらしい情報を得ることはできないでいる。
唯一の手がかりは、新宿で夜の仕事をしているということしか情報はなく、名前すらも分からない人などそう簡単に見つかる筈はない。
多分、女性を探し出すのは無理だろう。
その代わり再び美優がこの店にやって来る可能性の方が高いかもしれない。だから、美優が再び訊ねてくるのを八尋は待つつもりでいた。




