1 雨降る日の 小さなお客さん
その日は、朝から雨がしとしとと、降り続く日であった。
ガラス越し、窓の向こうを見上げれば、どんよりとした鈍色の空が広がっている。気持ちまで沈んでしまいそうな暗い空だ。
カウンターに座り、八尋は醤油差しに中身を補充する作業をしていた。
ランチ時間も過ぎた午後四時、店内には客は一人もなく一時の休息である。とはいっても、路地裏にひっそりと構える店のため、目立たないこともあって客じたいそんなにやって来ない。
だからといって人気がないというわけでもなく、いわば知る人ぞ知る隠れ家的な店だ。
おまけに、やってくる客が生者ばかりとは限らず死者も訪れる一風(どころか、かなり?)変わった店ではあるが、それでも店主はイケメンだし料理も絶品。
絶対リピートしたくなる店だ。
小料理屋というと敷居が高いというイメージはあるが、決してそんなことはなく、気楽に暖簾をくぐれるはず。
現に、今も店の引き戸が開かれお客さんが現れた。
「いらっしゃいませ」
八尋は立ち上がり、にこやかな笑みでやって来た客を迎える。
現れたのはそれも小さな女の子だ。
そう、子どもだって気軽に立ち寄れるくらいこの店は雰囲気のいい店で……。
そこで八尋は首を傾げた。
子ども? それも一人?
小学生低学年くらいか。おそらく八歳前後。
痩せた子どもだった。
少女はつぶらな瞳で、カウンターにいる一樹を見上げた。
外はまだ雨が降っている。けれど少女の手には傘はない。それなのに、雨に濡れていない。
「ええと……」
この子は生者か死者か。たぶん、死者だろう。だが、今の八尋にはまだそれを見抜く力はない。
どちらか計りかねた八尋は、またしても一樹に答えを求める。
すると一樹は軽く首をたてに振った。つまり後者。死者だ。
八尋は女の子の側に寄り、目の高さを合わせるようにしゃがみ込んだ。
「一人? お母さんは?」
少女を怖がらせないように、精一杯の笑顔と優しい声で話しかける。
うっかり、驚かせて店を出て行かれては相手は幽霊、追いかけることはできない。
「おなかすいた」
八尋の問いには答えず、少女は無邪気にお腹を押さえながら言う。
よほど、お腹を空かせているのか、少女のお腹はぐうぐう鳴っている。
初めて『想』を訪れた自分の姿と重なり、八尋は思わず笑った。
いや、あの時は笑い事ではなかった。本当に腹が減りすぎて道の真ん中で倒れるかと思ったのだから。
八尋は一樹をかえりみる。
一樹のことだ。
きっと少女に美味しいものを食べさせてくれるはずと期待を込めて見る。それに、この子は死者だ。
死者がこの店を訪れるからには、何かしらの因縁が動き出したということ。
この世をさまよい、導かれるように『想』にやって来た少女を一樹は見捨てるようなことはしないはず。
平沢や直哉のように、この子も天国へと送り出し成仏させてあげるのだろう。
それが自分の役目だと、一樹は言っていた。
「そこに立っていては寒いでしょう。こちらへいらっしゃい」
案の定、一樹は入っておいでというように少女に手招きをする。
招かれた少女は、嬉しそうに小走りで駆け寄り、一樹の前の席によじ登って座った。
「ねえ、お兄さんは芸能人?」
少女の質問に一樹は首を傾げた。
「いいえ、違いますよ」
「うそ! だって、ちょーイケメンだもん。テレビに出てる俳優さんみたいにカッコいい」
うん、僕も最初はそう思ったよ。
こんな小さな女の子でも、一樹のかっこよさが分かるんだな。
「ありがとう。じゃあ、褒めてくれたお礼に美味しいものをご馳走しようね。何が食べたい?」
一樹も少女と目線を合わせるようにして、腰をかがめながら話しかける。
「うーん」
少女は人差し指を頬に当て、首を傾げながら考え込む。
「ふわふわのオムライスは好きかな? ケチャップで味付けしたチキンライスをふんわり卵で包むんだよ」
なぜか八尋の方が目を細めてうんうん、とうなずく。
それ絶対うまいオムライスだ。
バターの風味が香るチキンライスを、こっくりコク深いケチャップで味付けし、その上に卵をふんわりとのせる。そして、ひよこ色のふわふわな卵の表面にナイフで切り込みをいれていく。
ああ……想像しただけでもよだれが出てくる。
一樹が作るオムライスを思い浮かべ、八尋はごくんと生唾を飲み込む。八尋の想像はまだ続く。
卵に切り込みを入れると、立ちのぼる湯気の中からとろとろの半熟卵が現れ、割った卵を左右に広げた途端、雪崩のようにチキンライスに落ちていく。
これぞまさに黄色の崩壊。
いやいや。
八尋はふるふると首を振った。
一瞬にして、一樹のオムライスに心を奪われ意識を持って行かれたではないか。想像だけで食欲を誘うとは、さすが一樹の料理は罪深く恐ろしい。
「一樹さんのオムライスは間違いなく美味しいよ」
と、八尋も熱心に少女にオムライスをすすめる。
本音は自分も食べたいというちょっとした下心もあってだ。それに、オムライスなら子どもは絶対に喜ぶはず。嫌いな子はいないに決まっている。
八尋も子どもの頃、母親にオムライスを作ってもらった時は嬉しくてはしゃいだものだ。
うん、決まりだね。
と、思ったが、少女はううん、と首を振る。
「オムライスはいらない」
「え! いらないってなんで? オムライスだよ? ふわとろの半熟卵が……あ!」
分かったぞ! と、八尋はぽんと手を叩いた。
「もしかして、卵アレルギーかな? じゃあ仕方がないよね」
「違うよ。アレルギーはないもの」
少女はううん、と首を振る。
「じゃあ、コレステロールを気にしてるとか?」
田舎にいたばあちゃんがよく、コレステロール値が高いから気をつけなければいけないと言っていた。って、そんなことを気にする歳ではないか。
少女はきょとんとした目で八尋を見ている。
そのつぶらな瞳に哀れむ色が滲んでいた。まるでこの人、何を言っているの? という目だ。
「なんてね。じゃあ、ええと……」
八尋はうーん、と考え込むように腕を組む。
そういえば、まだ名前を聞いていなかった。
「名前は? 僕は八尋だよ」
八尋は少女を覗き込むようにして聞く。
「美優」
「美優ちゃんかあ。可愛い名前だね。じゃあ、美優ちゃんは何が食べたいのかな? 好きな食べ物は? 一樹さんが美味しいご飯を作ってくれるよ。だから、食べたいものを言ってみるといい」
すると、美優はまたしても、うーん、と困ったように首を傾げた。
「好きな食べ物はママが作ってくれたもの。ママのご飯なら何でも好き」
「そっか、そうだよね。やっぱりママの手料理は一番だよね」
きっと料理上手なお母さんなんだろうなあ。
「じゃあ、最近ママが作ってくれた料理でおいしかったものは何かな?」
「お湯を注いでちゅるちゅる食べるものがおいしかったな」
「ちゅるちゅる? もしかしてカップラーメンのこと? うーん、それは手料理じゃないと思うけどなあ」
と、言った瞬間、八尋はぎょっとする。
なぜなら、美優の両目に大粒の涙が浮かんだからだ。
目の縁にたまった涙をこぼすまいと、美優は唇をきつく噛みしめ、膝の上に置いた両手をぷるぷると震わせていた。
え? 何で泣くの。僕、泣かせるようなこと言っちゃった。
カップ麺が手料理ではないって言ったせい? ど、どうしよう。
「うわ! 美優ちゃんごめん。そうだよね。カップ麺だって一手間くわえてアレンジすれば立派な料理に変わるよね……」
「ママはお湯を注ぐだけだもん!」
そう言って、口を引き結ぶ美優の瞳からとうとう涙が落ちた。
「っ! 美優ちゃん!」
八尋はおろおろしながら美優の頭を撫でようとしたが、引っ込めてしまう。
そのまま行き場を失った手を空に浮かせたまま、どうしたものかと青ざめる。




