其の玖
交通機関を乗り継いで、市ヶ谷大学へたどり着く。携帯に表示された時刻は、午後七時四十五分。少し、早いだろうか。
暗闇の中、守衛や警備員を警戒しながら敷地内へ踏み込む。だが警戒の割に、人の気配がほとんどない。
あるのはただ一つ、地下から漂う濃密な『嫌な感じ』だけ。そこで、おそらく蒼次が待ち構えているだろう。
ならば、そこ目指して進むまで。ここまで呼び出したんだ、警備員やら教授やらが残っている可能性は少ない。
建ててあった案内板を使って蒼次のいる位置を特定しようとして、その後ろに誰かがいる事に気づく。
腰の後ろにつけたソードブレイカーへ手を回してから、思い直して手を下ろした。
「……安東翡翠、出てきなよ」
「流石だね。隠れてるウチを見破れるの、リーダーに次いで二人目だよ」
「どうも。それで、ここにいるって事は、案内役は君かな」
そっけない口調でも、翡翠は眉一つ動かす事無く頷いた。赤い尻尾が、首の動きに合わせて揺れる。
「正解。ついてきなよ」
踵を返した翡翠の後に続いて、大学の敷地内を進む。
似たような建物の中で、翡翠は迷う事無くずんずんと進み、やがて一つの建物へと入った。その中にあったエレベーターへ入り、玄を振り返る。
「早くしたら」
「あ、うん」
躊躇いながら、中へ踏み込む。即座に『閉』のボタンを押した翡翠は、その下、周囲とは材質が違うのか、表面が少し滑らかになっている部分へ触れた。
『指紋の照合に成功、階数の指定を行ってください』
不意に流れ出した機械音声にかなりの驚きを感じながら、努めて微笑みを維持する。
「地下三階」
『声紋の照合を確認しました』
がたり、と一度大きく振動してから、エレベーターが動き始める。存在するはずのない、地下へ。
指紋認証に続いて声紋認証とは、かなり手の込んだ警備だ。それ以上に、大学敷地内の建造物を改造するとはただ事ではない。この警備システムも含め、金銭も想像以上に必要だったはずだ。
だが、そんな疑問を込めた玄の視線には気づかず、翡翠は何食わぬ顔で開いたドアの外を指し示した。
「後少し」
言われずとも、わかる。先程から感じていた濃密な『嫌な感じ』が、ここに来て膨れ上がっている。すぐ近くに、蒼次がいる。
「この先にウチはいかないけど、ここを開ければリーダーがいるから」
並んでいた扉のうち一つの前で立ち止まり、翡翠が告げる。言うが早いか、そそくさと去っていった。
一人取り残され、呆然と目の前の扉を見やる。金属製で、飾り気がない。それ以上に、この空間自体、飾り気という言葉とは無縁だ。骨組みが剥き出しになった天井、金属の板でできた床。壁や扉も同じようなものだ。
そこまで現在地点を把握してから、ようやく扉へ目を戻す。
ドアノブへ伸ばした手が震えている事に気づき、一度引き戻して強く握る。
逃げてしまいたい。来た道を引き返して、大学の外へ飛び出して。三枝邸に飛び込んで、紫乃に会いたい。抱き締めてしまいたい。そのまま、離れずにいたい。
けれど、そんな事は許されない。何より、それを選ばなかったのは玄自身なのだから。
一つ、大きく息を吐く。
ドアノブに手をかけ、一息に引き開けた。瞬間、嫌な感じが消える。
室内は、玄の家の居間より少し広いくらいか。部屋の壁に沿うように、琥珀の研究所で見た大きな檻が置いてある。
玄をここに呼び出した当人は、探すまでもなく目の前にいた。
「時間ピッタリだな、神木」
「お待たせしたようですね、会長」
内心を押し殺した囁きに、蒼次は笑って首を振った。
「よせよ、会長職はもう引退しただろ。今はしがない一生徒だ」
その余裕たっぷりな返答とは対照的に、玄は声の震えを精一杯殺して返す。
「……失礼しました。一ノ瀬先輩」
その呼び方には不満がなかったのだろう、蒼次は手招きで玄を室内に招き入れ、自ら扉を閉めた。
「とりあえず、取引に応じてくれて感謝するぞ。十塚黄衣あたりに通報されたら、こちらとしても厳しかったところだ」
「それ以外の選択肢を排除したのはあなたでしょう。何を白々しい」
背後から追い抜かしざまに玄の顔を一瞥し、蒼次は笑みを深めた。
「お前がそれだけ賢明だって事だ」
そう言って、数メートル先で振り返る。
「それじゃあ、新たな研究資料君。まずは、所持品を全て提出してもらえないか」
それは既に予想していた指示だ。何のためらいもなく、ポケットから財布と携帯と家の鍵を取り出し、腰の後ろから外したソードブレイカーと共に差し出す。
「お、従順でいいな。こちらとしても無駄な労力を消費したくはねぇんだ」
軽口には反応せず、近くの机へそれらを置く。
だが、玄の所持品にはさして興味ないらしい。それを見届けた後、すぐに次の指示が飛んでくる。
「それじゃ、その檻の中に。わざわざお前のために作らせた特注品だぞ」
これも予想通りの指示。特に抵抗する必要はないが、本格的に動きが取れなくなる前に一つだけ確認する。
「僕はあなたに従っている。取引は成立しましたね?」
「ああ。もちろんだ。金輪際、手紙に書いた類の人間に手は出さねぇ」
「それを聞いて安心しました」
これで、思い残す事などない。
開かれた扉をくぐり、檻の中に入る。背後で、扉と鍵が閉まる重々しい音がした。
鉄格子を挟んで、再び蒼次と相対する。
その蒼次はと言えば、近くに置いてあった椅子を引っ張り出してきて、腰かけている。それに習い、玄も檻の冷たい床に座り込んだ。
「それじゃあ、取引とは別の提案を初めるぞ。いわばプレゼンだな」
ただじっと、蒼次の顔を凝視する。
「お前、オレたちの仲間になれ」




