其の捌
「ねえ、神木君」
がやがやとした喧騒の中、人の多い廊下をジャージ姿で歩きながら、茜が口を開く。
「……ん?」
ぼんやりと今日の夜の事を考えていたせいで少し反応が遅れたが、茜は特に気にした様子もなく、話を続けた。
「どうして、実習室があんなに一杯あるのに、あたしたちの総戦術授業は魔道館でやるんだろうね?」
階段を下りて渡り廊下を渡り、体育館へ行く道から分岐して、魔道館へたどり着く。東棟三階からは大移動だ。
茜の問いへの答えを、記憶の中からほじくり出す。確か、紫乃の同じ疑問に、総戦術部の先輩が答えていた気がする。
「……実技室は狭いから、三、四年生になってから、少数クラスで使うらしいよ。総戦術部も、顧問、副顧問、十塚コーチの三組に分けて、別々の実技室でやるし」
「そっかー。一年と二年は基本動作が主だしね。皆でやると手狭かー」
会話の間に、魔道館へたどり着く。靴を履き替え中に入れば、先に到着していたクラスメイトたちが既に準備運動を始めていた。
「玄と茜の組、ちょっといいか?」
九組総戦術の教科担任は宏緑だ。補助で村田先生も入っているが、彼は基本宏緑に任せている。
その宏緑の意向により、クラス内で力量の近い二人でコンビを作り、授業中は基本その組で行動する。玄の相方は、茜だった。基礎魔術の使えない玄と、近接戦闘がてんで苦手な茜。要するに、互いの苦手な部分を互いで補っていくように、という事だ。
「なんですか?」
「ああ、茜じゃない。お前さんは、いつも通り頑張ってる。けどな、問題は玄、お前さんだ」
薄々わかっていた事を指摘され、微笑みを固定する。ぎこちない動作で首を傾げたら、眉根を寄せられた。
「そんな事したってごまかせないぞ。お前さん、朝からぼんやりしてるだろ」
「そんなつもりはないですけど」
「いや、してる。朝だって、出席に返事しなかっただろ?」
そういえばそうだった。茜につつかれなければ本当に無視していただろう。
「お前さん、今日は心ここにあらずって感じだぞ。体調悪いなら無理せず保健室に行った方がいい。総戦術は、適当にやると怪我するぞ」
本気で心配している様子の宏緑の目をしっかりと見据え、首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけなので」
「ならいいが、気は抜くなよ。無理そうならすぐに言え。それじゃ、クールにな」
そんな忠告と心配そうな視線を残し、宏緑が去っていく。
その後ろ姿から目を逸らし、茜へ微笑む。
「それじゃあ、続きをしようか」
「神木、あなた今日、微笑んだままね」
帰り道、いつものように十一区の駅を出た紫乃は、いつものように隣に寄り添う玄の、普段とは違う表情へ言及した。本当は、朝迎えに来た時から言いたかったのだが、機会を探しているうちに帰りになっていた。
自分の不甲斐なさに歯噛みしながら、玄の微笑を見つめる。まるで出会った時のように、全てを押し隠す微笑みの仮面。最近は、紫乃と一緒にいる時は少なくなっていたのだが。
「そうかな?」
そう首を傾げた玄の顔には、穏やかな微笑が貼りついたまま。その向こう側にあるものを悟らせまいとしているかのように、完璧だ。
その奥のものを紫乃に開示するつもりはないらしい。玄が存外頑固なのは知っている。
それを知る事を諦め、紫乃は話題を変えた。
「まあいいわ。それで、今日の夕飯の事だけれど」
その言葉に、玄は一瞬、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。
「……ど、どうしたのよ」
「ううん、何でもない。けど、ごめんね、紫乃」
申し訳なさそうに眉を下げ、玄は謝る。先程の表情の変化など、なかったように。
「今日は風邪気味だから、夕飯は食べないで早めに帰るよ」
その弁に、紫乃は眉根を寄せながら、納得もしていた。
今日一日ぼんやりしていたのは、少し熱っぽかったのだろう。微笑んだままなのは、それでも気を引き締めていたからか。
「……風邪気味なら、尚更ちゃんと夕飯を食べなきゃダメよ」
「三枝家の人たちにうつすわけにはいかないよ。本当なら君の傍にいるのも気が引けてる。だから、ね」
申し訳なさそうな顔でそう言われてしまえば、紫乃とて黙るしかない。どうやら、今日の夕飯は一人分余る事になりそうだ。
「当主様と、奥様にも謝っておいてくれるかな。夕飯、きっと余っちゃうだろうから」
「え、ええ。それは構わないけれど」
理由はわからないが、今日の玄と話していると調子が狂う。何とは言えないが、普段と違う。風邪を引いているからだろうか。
もやもやとした気分を抱えたままで、三枝邸に到着してしまう。門の中へ一歩入ったところで、玄が足を止めていた事に気づいた。
「守衛さん、門を閉めてください」
門の内側でインターホンやらの応対を担当している守衛が、一礼して門を閉めていく。
完全に閉まり切る寸前、玄の唇が動いた。
――――ごめんね。
何に対しての謝罪なのかは、ついぞ理解できなかったけれど。
「……ごめんね」
これしか、方法がないんだ。
胸中で、続きを呟く。それが、紫乃に伝わる事は二度とない。もう二度と、会う事すらないだろう。
それで構わない。紫乃を、茜を、宏緑を、黄衣を、藍紫を、紫苑を、使用人たちを、赤人を、吉田小豆を、品川煉瓦を、高木桃を、篠崎錫を、三田先生を、村田先生を、護るためだ。
未練を振り落とすように、足早に路地を抜ける。十五分かからずに家へたどり着き、乱暴に扉を開けた。
「ただいま」
グリムはどうやらまだ帰ってきていないらしい。好都合ではあるが、一抹の寂しさを拭えない。そっとため息をつく。
背負っていた鞄を置き、中から出した筆箱やらクリアファイルやらを引き出しにしまっていく。軽くなった鞄は、その他の鞄と共にクローゼットへ。その途中で着替えも済ませる。
出しっぱなしだった服やら皿やらゴミやらを、あるべき場所へ戻していく。刀も、しかるべき処置を施した後、寝室へ。
随分と綺麗になった部屋を眺めていたら、背後で鈴の音がした。
「……おかえり、グリム」
帰宅した黒猫へ笑いかける。一度身震いした猫は、玄の足元へ擦り寄って、何事かと見上げてきた。
「……少し待ってて」
一度しまったボールペンを取り出し、メモ帳から一枚破り取る。しばらくグリムの世話を頼む旨書き記し、小さく折り畳んで首輪に結びつける。
「グリム、僕はもうここには帰ってこない。しばらく分のご飯は置いておくけど、これからはミストレスの、紫乃の家に行って、世話してもらうんだ。いいね?」
この忠告が通じているかどうかはわからないが、信じられないほど賢い黒猫の事だ。きっと、言う通りにするだろう。
「……紫乃を、よろしくね。僕の代わりに傍について、護ってあげて」
ガラス球のような瞳を見据え、言い含める。
しばらくそうしていた後、踵を返して蒼次からの手紙を取り出す。
玄が全てを終えて玄関の鍵を閉めるまで、それから十五分もかからなかった。




