其の漆
月と街路灯だけが照らす薄暗闇の中を、一人歩き続ける。三枝邸から玄の住むアパートまではゆっくり歩いて二十分、全力で急げば五分と言ったところか。こつこつと、自分の足音だけがブロック塀の間に響く。日が沈んで肌寒くなった空気が、首元を過ぎていった。
夜は嫌いだ。正確に言うならば、暗闇が嫌いだった。暗く沈んだ空気の向こう側に、『みんな』を見る気がして。今はもう、そんな事は少なくなったけれど。
「……なんか」
密度の濃い一日だった。胸中でそっと息を吐く。
神降ろしについて調べて、両親が間違っていた事を知った。禁忌だった事も知った。両親の研究データ消失についても仮説ができたし、一花琥珀の目的も悟った。問題は、グローリアと一ノ瀬蒼次が何をしようとしているのかだが、今無理やり捻り出す必要もないだろう。もしも今後紫乃の前に立ちはだかると言うのなら、打ち破るまで。
気がかりなのは、藍紫も言っていた事。
――――君は、研究対象として襲撃されないのか?
答えは、『イエス』だ。
紫乃が研究対象であるように、玄もまた研究対象だ。それ以上に、副作用から鑑みて『既に完成した神憑き』というのは貴重なはず。グローリアの戦力増強に利用しているのなら、グローリアへの参加を求められる可能性は高い。そこで首を縦に振らなければ、殺して神を剥ぎ取ろうとするだろうか。どちらにせよ、紫乃ばかりを守ればいいというものでもないかもしれない。
だがそれを言って余計な心配をかけるのは避けたい。玄が目的であれば即座に殺そうとする可能性は薄いのだから。まずは誘いをかけてくる。その間に、対策を講じるまでだ。
ふと顔を上げる。物思いに沈んでいるうちに、どうやら家の前まで来ていたようだ。見慣れた外観を見上げる。家の中で待っているだろう、機嫌が斜めに傾いた黒猫の事を思い、自然口元に苦笑が浮かんだ。最近は構ってやれていないから、引っかかれるくらいは覚悟した方がいいだろうか。
アパートの門を開けようと手をかけたところで、体中を嫌な感じが包んだ。
「……っ!」
息を詰め、ひんやりとしたノブからゆっくりと右手を離す。十分に迎撃体勢が整ってから、振り向きざまに叫ぶ。
「誰だ!」
どこからか漂っていた気配が、揺らぐ。刀の柄に添えた右手に力を込めたら、すぐ側に建つ電柱の反対側から、人影がゆっくりと姿を現した。男性ではない。小柄すぎる。
だが、玄の目に留まったのはそこではない。
即頭部の高い位置で一つに束ねられた、暗い赤の髪。揺れるそれが彩る、三白眼。
「……夏以来だね。久し振り、神木玄」
「……安東翡翠……どうして君がここに」
「お前に届け物するためだけど」
刀から右手を離す。この状況で届け物とはどうにも疑念が拭えないが、一度は信頼した少女を前にして、あまり警戒心を露にはしたくない。それが翡翠であるのなら、尚更。
ぶっきらぼうに差し出された何かを、恐る恐る受け取る。翡翠の顔を見るばかりでこれが何なのかすら確認できないが、感触と大きさからして封筒のようなものだ。
「安心して。開けたら即爆発とかないし」
内心の警戒を見抜かれたのかとぎょっとするが、翡翠は特に何も言うでもなく、玄を見ている。もしかしたら今は笑う場面だったのかもしれないが、生憎そんな余裕はなかった。
「……そう信じるよ」
降りる沈黙。だが、その実玄の胸中は疑問が渦巻いて騒がしい。長野在住のはずの少女が何故ここにいるのか。この封筒は何なのか。
いや、待て。待て待て待て。薄れかけた記憶を掘り返せ。あの時この赤髪の少女は何と言った。
――――道に迷ったの。
彼女が明かした素性は、名前だけだ。道に迷ったと言えど、そこに至った経緯、姿を隠していた理由、公道に出た後どうするつもりだったのか、何一つ話してくれていない。思い出話だって、それが真実だと言う理由はない。もっとも、あの時の顔はあれが本音だったと思わずにはいられないが。
目の前の少女が、まるで得体の知れない何かのように思えてきて、玄は思わず翡翠の顔を凝視した。
ふと、今まで玄を射抜いていた少女のまっすぐな視線がずれる。心なしか、頬が朱に染まっているようだ。
「……そんなにじっと見られると……恥ずかしいんだけど……」
猫のようなしなやかさで体を捻った翡翠が、ちらりとこちらを見る。その視線で、我に返った。
「あ、ああ。ごめん。ちょっと、君がここにいる事に混乱して」
「べ、別に構わないし。ちょ、ちょっと恥ずいだけ。ってか、それ渡したからウチは帰るから」
「あ……」
思わず、不思議な声が漏れる。今帰られては困る。せめて、渡されたこの封筒が何なのか、それだけでも聞いておかなければ。
踵を返しかけた翡翠が、玄の情けない声を聞いて肩越しに視線を寄越す。
「何? まだなんかあるわけ?」
三白眼故の鋭い眼光に怯み、またしても言葉が消え去りかける。霧消しつつあるそれを必死に掻き集めて、何とか言葉にした。
「……いや、これ。せめて何なのかくらいは聞いておこうと思って」
「ああ、そういう事」
突き刺さっていた視線が緩む。即頭部から伸びる赤い尻尾がくるりと回転し、玄は再び翡翠と正面から相対した。
「それは……」
意図せず、生唾を飲み込む。嫌な汗が背筋を一筋伝って落ちた。
「……高天原への招待状。お前が求める世界への一歩になる手紙」
あまりにも詩的な表現すぎて何が言いたいのかさっぱりわからないというのが本音だが、瞬きした一瞬の隙に赤い尻尾は消えていた。
それ以上の詮索をしてもまともな返答は返って来なかっただろうと割り切り、手の中の封筒に目を落とす。
とりあえず封を切るのは家に帰ってからにしようと、踵を返して今度こそ門を開けた。
「ただいま、グリム。……わ、ちょ、ごめん。わかった。わかったからご飯にしよう」
扉を開けた途端、弾丸の如く突っ込んできた黒猫を何とか宥め賺して餌をやる。背負っていた鞄を何もない机の上に放り、いつものようにソファへ倒れこんだ。
着地の際に少しだけ体に力が入ったのか、右手が何かを握る感触が生まれる。
「……ん」
少しだけ気合を入れて体を起こす。持たされた封筒を、改めて明るい光の下しげしげと検分する。
何の変哲もない、白い封筒だ。横長で、通常の便箋サイズ。当然の如く宛名も差し出し人の名前もない。
だが、封筒の厚さから言って、中に不穏なものが入っている事もないだろう。翡翠もそう保証していたのだから。
自らに言い聞かせるようにして恐怖心を抑え込み、ハサミで封を切る。
中から出てきたのは、これまた白い便箋。飾り気も何もないそれだけだ。とりあえず、第一段階はクリアというところか。
食事はもう終わったのか、玄の膝で顔を拭い始めたグリムを撫でて緊張をごまかしながら、便箋を一思いに開いた。
『拝啓、神木玄殿。
木々も色づき始め、いや、堅苦しい挨拶は抜きにするぞ。単刀直入に言う。お前は俺たちに取って、これ以上なく有用な研究資料だ。そんなお前といつまでも殺し合うのは得策でないどころか、ただの損失だと判断した。
そこでだ。取引をしよう。そのために、安東翡翠にこの手紙を託した。
取引の内容は簡単だ。お前という人間を俺たちに差し出せ。お前がこの条件を呑み、以降俺たちの意思に従うならば、今後一切、お前と関わりのある人間には干渉しない。具体的な例が欲しいなら、三枝紫乃以下三枝家の人間、お前の通う第八高校の生徒及び教師、それから十塚黄衣だ。どうだ、わかりやすいだろう?
この条件を呑むなら、明日の午後八時、東京都第五区画にある市ヶ谷大学まで来い。
最後に、期日を超過する、もしくはこの事を口外した時点でこの取引は棄却され、俺たちはすぐに三枝紫乃の誘拐とお前の殺害に全力を傾ける事を明記しておく。賢明な判断、期待するぞ。
一ノ瀬蒼次』
予想していたとは言え、これほど早いとは。この手紙の内容にではなく、タイミングに驚きを禁じえない。
ゆっくりと、思考をめぐらせる。
ここで玄が自らの身を実験台に差し出せば、紫乃以下玄の周囲にいる人間には今後一切危害が加わらない。断れば、即時侵攻。
自嘲的に、鼻を鳴らす。
何が取引だ。どう足掻いても、玄に断るなんて選択肢は出て来ない。もっとも、玄がそう判断する事すら予想していなければ、こんな大胆な手紙など送ってくるはずもないが。
便箋を握る手に、少し力を込める。
本音を言えば、少し怖い。この体を実験体として差し出した後、どんな苦痛が待っているのか、はたまたそれを利用して蒼次は何をしようとしているのか。もしもそれが結局、紫乃たちの苦痛を呼ぶものだとしたら、本末転倒なのだ。
だが、それ以上に。ガーディアンとして、婚約者として、紫乃を護るための最善策はこれであるともわかっている。紫乃がいつか命じたように、宏緑がいつも言っているように、紫乃を護り、周囲を護るために。
「……ごめんね、グリム。君を構う事も、もうできなくなる」
黒く柔らかな毛並みに顔を埋める。
玄の言葉が猫に理解できるはずもなく、グリムは嫌そうに一声鳴いて、玄の拘束から逃げ出した。




