其の漆
再び靴箱で靴を履き替え、北棟、通称実技棟へと足を運ぶ。渡り廊下から実技棟内へ足を踏み入れ、蒼次に先導されるがまま廊下を進む。普通教室三個分ほどの間隔で並ぶ扉の前を歩き続けて、二階へあがる。
先程の言葉通り、蒼次は『第五戦闘実技室』と書かれたプレートの下で止まった。急に足を止めるものだから、赤人の後ろを歩いていた紫乃は、危うくその背にぶつかりそうになってしまう。それでは、三枝家の一人娘として格好がつかない。内心冷や汗を流しながら、紫乃は平静を装って蒼次を見つめた。
「ここが第五実習室。まあ、第五戦闘実技室ってのが正式名称だけど、そんな風に呼ぶ奴はいねぇな。んで、山代先生が来るまで少し待ってくれ」
ぞろぞろとやってきた、紫乃以下、玄、茜、赤人の四人は、蒼次の指示に従い、扉周辺で手持ち無沙汰に中空を眺める。その時間に嫌気が差し、紫乃は隣で壁に寄りかかる玄に話しかけた。
「神木、あなた、勝てるんでしょうね?」
自分でも気づかないうちに、深刻な顔をしていたのだろう。紫乃の表情を見た玄は、浮かべていた笑みを、一層深くした。
「大丈夫。僕の力量は、ミストレスが一番知っているでしょ?」
「知らないわよ。わたしが見聞きのは、今朝だけだもの」
紫乃の訂正に、少し考え込む様子を見せた玄は、その仕草を解いてすぐ、紫乃の肩に手を置いた。それも、両肩に。
思いも寄らぬ玄の行動の虚を突かれ、動揺を隠せない。それを抑えるように左手で髪を耳に掛け、改めて玄に向き直る。
「僕は、君のガーディアンだよ。君一人を護るために力を磨いてきた。だから、生半可な事じゃ、負けないよ」
そう宣言する玄の瞳は、少し揺らいでいる。それが嘘によるものなのか、我に返った羞恥なのかは、紫乃に判別する事はできないけれど。
「ぼくが『生半可』? ふざけた事を言ってくれる。その鼻っ柱、すぐにへし折ってやるからな」
紫乃たちの話を聴いていたのだろう、今まで黙っていた赤人がそう宣言する。その、玄を徹底的に敵視する姿勢を前にしても、玄は何も言わず、ただ微笑んで会釈しただけだった。その、余裕といえば余裕だが、無抵抗にも見える態度が癇に障り、思わず玄に詰め寄ってしまう。
「あなたね、少しくらい言い返したらどうなの?」
「あ、いや、僕はそういうのはあまり得意じゃなくて。それに、波風立てるのはあんまり良策じゃないかなって」
「それにしたって、言われっぱなしじゃ面白くないじゃない」
それまでの笑みを苦々しいものに変え、詰め寄る紫乃から視線を逸らす玄に、内心で「優柔不断」と罵る。その事なかれ主義は紫乃とは相容れないものだ。
けれど、紫乃がそれ以上言葉を重ねる前に、階段から上がってきた人影が声を上げる。
「おう、鍵持ってきたぞ。待たせたな」
そう言って近づいてきた人影は、きょとんとする紫乃、そして赤人の視線に気づいたのか、小さく笑った。
「そういや、その二人とは初対面だったな。俺は一年九組の担任で、山代宏緑だ。担当は総合戦闘術訓練。そちらが三枝紫乃さんなら、一組だよな。俺の授業だろうから、よろしく頼むぞ」
にやっ、と笑った宏緑に一度大きく礼をする。その斜め前で、赤人も同じように腰を折った。
「一年一組、五条赤人です」
「おう、よろしくな」
自己紹介を終えたところで、宏緑が改めて鍵を開ける。内部に足を踏み入れ、ぐるりと一周見渡した。
真っ白い壁に囲まれた、普通教室三つ分ほどの長方形の空間。心なしか、天井も高い。その中央、四方の壁から三十センチほど離れたところで、床が十五センチほど高くなっている。どうやら、その部分がリングらしい。
「戦う二人はリングの上に上がって、それ以外は壁際で待機だ。武器はそこの奴を好きに取っていい」
宏緑の指示に従い、刃引きされた武器を手に取った玄と赤人がリングの上に上がる。紫乃と茜は扉近くの壁際に寄り、宏緑と蒼次は、先の二人と同じようにリングに上がった。
「じゃあまず、その端についてる黒い線で向かい合うように立つんだ」
その指示を受けて、赤人は勇んで黒線まで向かうが、玄は紫乃を振り返るだけだ。
「どうかしたのか?」
「ふん、怖気づいたか?」
「いえ、すいません、少し待ってください」
宏緑にそう断った玄が、一度リングから降り、紫乃の方へと歩み寄ってくる。そこで、赤人、茜を覗いた全員が、玄の目的を悟った。
「『守護者約定』……律儀に守るわね」
「仕事だからね。その辺りはきちんとしておかないと」
肩を竦めた紫乃の前に立った玄が、微笑みのまま言葉を紡ぐ。
「ミストレス、戦闘許可を」
「許可するわ。ルールに従って叩きのめしなさい」
守護者約定は、数の血族に仕える守護者について定めた誓約であり、数の血族内でのみ効力を発揮する。内容は、ガーディアンとして雇用できる年齢から、必要な能力や資格、そしてガーディアンとしての行動に関する制約まで定められている。その中で、決められているのだ。
曰く、『守護者は、主人の許可なく防衛行動以外の戦闘行為を行ってはならない』と。
紫乃の許可を得て、玄は笑った。先程よりも、深い笑みで。
「了解。――――斬り捨てる」
不吉な言葉を残し、リングの反対側、黒線の上で赤人と向かい合う。玄の纏う雰囲気が変わった事を感じ取ったのは、またしても、赤人と茜以外の人間だった。
「それじゃあ、模擬戦を開始するぞ。ルールは全日本総合戦闘術協会が定めるものに準拠するものとする。時間制限は無し、どちらかが降参するか、気絶することで勝敗を決する。生命に関わる、又は四肢を切断するような攻撃は禁止だ。質問は?」
二人に交互に視線を送り、質問がない事を確認する。
「それじゃあ、構えて!」
赤人が、戦斧を構える。魔力を活性化させ、戦闘準備を整えると共に二メートルを越すそれを振り回すための身体能力を得る。
対して、玄は刀を抜くどころか魔力を活性化させることすらせず、黙って立っている。
「どうした? 早く構えてくれ」
「ああ、始めてくれて構いません。これが僕の構えですから」
「そ、そうか」
それを傲岸不遜と取ったのだろう、赤人が瞳に苛立ちを滲ませる。
「それじゃ、始め!」