其の壱
「ミストレス、起きてる?」
心配そうなその問いは、紫乃の不機嫌を加速させるだけだ。だが無視するのもどうかと思い、無愛想はなはだしく突き放す。
「……バカにしないで」
「……なんか不機嫌だね。毎朝こうなの?」
だが流石に茜まで突き放すのは気が引けて、大人しく窓に寄りかかる。一度大きく呼吸すれば、少しだけ落ち着いた。
「悪いわね。低血圧のせいで目覚めが悪いのよ」
「またそうやって低血圧のせいにする。わかってるなら、もう少し遅い時間に集合すればよかったのに」
茶々を入れてきた玄を一睨みで黙らせ、茜へ視線を戻した。
「もう少ししたらいつも通りになるから、気にしないでちょうだい」
「わかった。降りるのはまだ先だから、眠いなら寝てて大丈夫だよ」
その言葉に、電光掲示板へ目をやる。確かに、まだ後三十分はかかる。だが、さすがに眠る気にはなれなかった。
「いえ、平気よ」
窓の外を飛び去っていく景色へ目をやる。規則正しい振動と音が眠気を誘うが、頭を振って追い払う。
現在時刻は午前六時三十分。普段ならそろそろ起き出す頃。休日ならまだぐっすりと夢さえ見ずに眠りこけている時間だ。
そんな時間に、何故電車に乗って移動しているのかといえば、理由は一週間ほど前に遡る。
白山祭襲撃事件から約一ヶ月。校舎の再建もようやく一段落し、普段通りの日常とやらが取り戻された頃。普段通り三人で昼食を取っていた時、茜が口火を切った。
「……ねえ、二人とも」
普段、この時間は楽しそうに話をしている茜の、少し違う様子に首を傾げつつ、話の続きを待つ。玄はちらりと視線を向けた後、購買の焼き蕎麦パンを一口食べた。
「……神降ろしについて調べたいって言ったら、協力してくれる?」
どんな気持ちで茜がそんな事を言い出したのかはわからない。だが、その提案は紫乃にとって渡りに船だ。
「いいわよ。むしろ、わたしの方こそ茜に協力して欲しいと思っていたの。その理論魔術の知識は、わたしにはないものだから」
快諾した紫乃にほっとした様子の茜に、玄が告げる。
「……僕も構わないよ。必要なら実演もしてみせる。けど、桜井さん。ミストレスも。これだけは理解しておいた方がいい」
一気に張り詰めた空気の中で、紫乃は何も言えず、玄を見つめた。
「神降ろしについて調べるという事は、『奴ら』への対抗策を練るという事。生半可な気持ちでその扉は開けない方がいい」
何かと思えば。当たり前過ぎる忠告に、紫乃はおろか茜さえ、吹き出す。
「大丈夫。そんな中途半端な気持ちではやらないよ。あたしは知りたい。それがグローリアへの対抗策になるのなら、尚更。あたしはもう、部外者でいたくないから」
「わたしは現に襲われているのよ? 二度目がないなんて保証はどこにもない。なら、対抗策を練るのは当然よ」
各自の主張に、満足したのだろう。玄は微笑みを深め、焼きそばパンを握った。少し前のクリームパンを思い出し、内心で冷や汗をかく。
「二人がそう思うなら、僕に反対意見は無いよ。……知りたいのは、僕も同じだから」
予想外に重くなってしまった雰囲気を吹き飛ばすように、茜が明るい声を出した。
「じゃあ、予定が合う日に、出かけようよ。調べ物するには、国立図書館が一番いいと思うんだ。この近くの図書館は全部見て回ったけど、何にも置いてなかったし」
既に動いていた事には驚きだが、無駄足が減った事を素直に喜ぶ。
「了解よ。それじゃあ、予定については追って連絡するわ」
「僕は、ミストレスが空いている日ならいつでも。特に予定もないしね」
その答えに、茜は満足そうに頷く。
「オッケー。それじゃあ、あたしはこれで戻るから」
約束が出来てテンションが上がったのか、楽しそうな足音を響かせて茜が去っていく。
その後ろ姿を見送っていた玄が、こちらを見もせずに声を上げる。
「『紫乃』、外出許可が下りるの?」
「下ろすわ。あなたがいれば平気でしょう。『玄』」
見知らぬ女子生徒二人が、足早に通り過ぎていった。
車掌のアナウンスで、物思いから顔を上げる。いつの間にか、次の駅は東京だ。
「……東京で降りればいいのよね」
誰にともなく呟いた問いを拾い上げたのは、茜だ。
「うん。そこから徒歩でいける距離だよ。心配なら、タクシーとか使う?」
「無駄な出費は避けるべきよ。神木がいれば問題ないわ」
「僕だって、神憑きに二人がかりで襲われたりすると危ないんだけど」
心配そうに差し挟まれた反論を、跳ね除ける。
「わたしや茜もいるもの。撤退くらい可能でしょう」
そう言ってしまえば、玄も黙り込むしかない事を知っていて。
丁度扉が開く。人の波に呑まれぬよう、三人一丸となってホームへ降りた。
普段見知ったものとは桁の違う人の多さに少々の驚愕を抱きながら駅を出た途端、肌寒くなった空気が包む。
少しずつ色づき始めた街路樹の下を進む事、十分程度。
「見えてきた!」
茜が、一際大きな声を上げる。なるほど、進行方向の先には巨大な建物。レンガ造りのそれは、少しばかりではない威圧感がある。
「……あれが、国立図書館……なんか、重厚というか、威圧感があるというか……」
玄が漏らした感想は奇しくも紫乃と同じもので、少し口元が緩む。そんな二人を余所に携帯を少し弄った茜は、興奮したように喋り出した。
「今正面にある一号館は、大正時代に建てられたものをそっくりそのまま再建したみたい。その後ろの二号館と三号館は、現代風の建物らしいよ」
それはまた、なんとも歴史ある建物だ。中にあるものも、それ相応と期待してもいいのだろうか。
携帯をしまい込んだ茜が、一歩先で踊るようにターンする。コートの裾が翻った。
「蔵書は一般図書や一般知識の専門図書もそうだけど、魔術関連書が特に豊富なんだ。古いものは平安時代のものなんかも残ってるみたい。ここなら、多分神木夫妻の論文の手がかりも見つかるんじゃないかな」
自慢げに胸を張った茜に微笑んで、隣に並ぶ。背後でぼんやりと歩いていた玄を振り返れば、ポツリと零れ落ちた呟きが耳朶を打った。
「……なら、常盤たちのアレの理由も……」
それが何を意味するのかはわからない。『常盤』が何かなのか、はたまた誰かなのか、それすらもわからないのだから。ましてや、『アレ』の中身が何なのかなどわかるはずもない。
だが、玄の表情は、あの日雨に打たれて泣いていた時と似通っていた。
「神木、早く来なさい」
だから、紫乃はあえて声を掛ける。急かし、呼び寄せ、傍に並ぶ。あの日告げたように、傍にいる事を知らしめるために。
「……あ、ごめんごめん」
黒いパーカーを風で揺らしながら、玄が小走りに駆け寄ってくる。橙也のお下がりだというそのパーカーは、どう見ても玄には合っていないのに、妙に似合っていた。
「神木君、ここの閉館時間は七時だけど、門限とか大丈夫?」
神木は一人暮らしだ。門限など最も関係のない人間といっても過言ではないはずだが、茜は紫乃の前に玄へ尋ねた。
「僕が一緒にいれば、『常識的な範囲内』であれば大丈夫だよ。帰る時間を換算しても、八時頃にここを出れば余裕じゃないかな」
「オッケー。それじゃあ、気の済むまで調査しようか」
どうして、紫乃の門限を玄に聞いたのだろうか。
その問いの答えは、玄からもたらされた。
「ミストレスなら、『別に何時だって平気よ』くらい言いそうだからね。ミストレスはそれで平気でも、桜井さんは気にするんだよ」
その全てを見透かしたような物言いに、ムッと頬を膨らませる。だが、これ以上ここで抵抗するのも見透かされているような気がして、言葉は呑み込む。
「あ、拗ねた」
事実を端的に表した茜の言葉すら苛立たしくて、大股に正門を潜った。




