其の拾捌
ざあざあと、轟音を立てて水滴が万物を殴りつける。そんな雨の中、濡れ鼠と化した牡丹の前に、その少年は立っていた。少年の持つ紺色の傘に雨が当たり、特有の音を響かせる。だが、傘などこの雨ではさして意味がない。現に、少年のズボンは腿の辺りまで色が一段階濃くなっている。
だが、そんな事は牡丹にとって無意味だ。ちょうど、少年の傘に意味がないように。
「……貴様……」
顔に張り付いた栗色の髪の向こう、少年の端整な顔を睨みつける。冷えて掠れた唸り声が、喉の奥から漏れ出す。
そんな牡丹の様子に頓着する事無く、少年はにやりと笑う。
「よう、鹿山牡丹。お前に話があってきた」
「……どの面提げて私の前に現れた! 一ノ瀬蒼次!」
この国を治める一ノ瀬家、その次男として時折メディアに現れるから知っている。この少年は、一ノ瀬家の次男だ。牡丹の敵だ。憎むべき仇の一人だ。
だが、牡丹の剣幕などさして気にする様子もなく、飄々とした態度で蒼次は答える。
「どの面も何も、お前とは何の因縁もないだろ。それどころか、これから仲間になるかも知れない相手だぞ?」
その答えに、牡丹は怒りも憎しみの通り越して呆然とした。この少年にとって、いや、『奴ら』にとって、牡丹はその程度でしかない。『事件』はこの程度でしかない。それが、雨粒となって容赦なく牡丹を貫く。腸が、沸騰する。
「……ふざけるな……!」
気づけば、牡丹は蒼次に飛び掛って地面へ押し倒していた。
「……どうした、その顔は」
「貴様らが……貴様らが……お母さんを……!」
その細く白い首に両手をかける。遠慮も容赦もなく力を込めていく。
なのに、蒼次は眉一つ動かさない。
「……お前の母親の事件は、知ってる。……その、非道さも知ってる。……だから、変えるぞ」
骨ばった手が伸びてくる。整った顔つきが、ここに来て初めて少し歪む。
「この国は最低だ。平等も平和も安寧も偽りだ。だから、変えよう」
頬に触れた手は、冷え切っていた。
「俺たちで変えるぞ。こんな腐った国をぶっ壊して、新しく作り直すんだ。俺たちが、俺たちの望む国を」
両手に込めた力が、緩んでいく。
「理想を叶えるんだ。お前の苦しみが二度と繰り返されないように。同じような者を出さないために。お前を苦しめるこの国を倒すぞ。お前の……俺たちの復讐を遂げるんだ」
いつの間にか、牡丹は首を絞めるのをやめていた。蒼次の上に馬乗りになって、蒼次の言葉に耳を傾けている。泣き疲れ、憎み続けてぼろぼろになった牡丹に、優しく笑いかけてくる。
「一緒に来い。革命を起こすぞ。お前の母親を殺し、隠蔽し、抹消したこの国に、復讐するんだ」
牡丹の体を、濡れた冷たさが包み込む。それは、これ以上ないほど温かかった。
瞼を開く。最初に目に入ったのは、覗き込んでいた橙也の顔だった。
「お、目が覚めたな。体はなんともないか?」
「問題ありません。感謝します」
微細な揺れと重低音から、自分が車の中にいる事はわかっていた。シートやドアと干渉しないよう、注意を払いつつ体を起こす。
「起きたんなら、シートベルトしとけよ。なんたって無免許運転だかんな。事故ったって知らねーぞ」
「……水憑き……運転できるのですね」
感心したような呟きに、瑠璃はちらりとこちらを向いて笑った。
「んなの、昔盗難車で遊びまくったからな。経験でなんとかなるもんだ」
「いえ、自分が言っているのは身長の問題です」
「よしその喧嘩買った」
「まあまあ、二人とも落ち着け。水さん、運転に集中してくれよ」
引き攣った笑いを浮かべて、瑠璃が正面を向く。別段からかいたかったわけでも遊びたかったわけでもない。牡丹もまた、流れ去る外の風景へ目を移した。
何故、今頃になってあの時の事を思い出したのかはわからない。死にかけて、感傷的になっているのかもしれない。わからない事だらけの中で唯一わかっているのは、あの日から牡丹の全てが変わったという事だ。
あの日蒼次の誘いに乗った牡丹は、長かった髪をばっさりと切り、大学を辞め、家から放り出された荷物を処分し、一ヶ月も経たないうちにグローリアへ入った。蒼次と琥珀の影響もあり、三年経った今、幹部と言っていい位置にいる。
だが今日、それも終わる。紫乃の誘拐という任務を果たせず、いたずらに兵を浪費した。もはや、蒼次に合わせる顔がない。グローリア内に居場所があるとも思えない。
「死んで詫びるしかありませんね」
ぽつりと呟けば、同乗者二人が同時に吹き出した。
「何が可笑しいのです」
「いやいや、相変わらず我らがリーダーの頭脳は凄まじいと思ってな」
要領の得ない橙也の答えに、瑠璃が補足する。
「アイツはアンタがそー思う事さえ予測済みだ。伝言がある」
ルームミラー越しに目が合う。そこには思いのほか真剣な光があって、牡丹は居住まいを正した。
「『今後は失敗を取り返すために、今まで以上に働け。革命を成すまで勝手に死ぬ事は許さない』ってよ」
雷にでも打たれた気分だ。蒼次の寛大さへの感激と、思いつめていた自分への忸怩たる思いで泣きそうになる。
だがここで弱さを見せるわけにはいかない。蒼次に付いて行くと誓ったあの日から、この身は平凡な女子大生ではなくなったのだから。蒼次の剣となり、盾となり、松明となる。新たな国の光となるべき少年の傍につき従い、必要ならば全ての闇を背負い消える。それが、抹消されるはずだった自分が今この場に存在している理由。
それを再確認し、牡丹は体の力を抜いた。
「……平気か?」
「ええ、問題ありません。ご心配をおかけしました」
問題ない。蒼次が必要としてくれるなら、牡丹はどんな戦場だって飛び込める。地獄にだって躊躇なく落ちよう。
誓いを新たに、拳を握り締めた。




