其の拾陸
様子のおかしい玄をソファに座らせ、手早く片づけを済ませる。いつの間にか食事を終えていたグリムを抱える玄の隣に腰掛け、なるべく刺激しないように話を再開しよう口を開きかけたとき。
「……あの人の名前は、幸田橙也」
玄が先手を打った。そのどこまでも静かな声音に、ただ耳を澄ます。
「……二年前まで、長野県にある三枝孤児院の職員だった男だよ」
鼓膜を震わせた音声が脳に届いてから、それを理解、処理するまでにかなりの時間を要した。
「君が神木玄君だな?」
部屋の中で、縮こまって椅子に座っていた少年に声を掛ける。サラサラとした黒髪に、同年代と比べても中性的な顔立ち。線の細い体。総じて、男女の判断が難しい。
だが、橙也には事前に書類をもって通達されている。特に悩む事もなく、顔を上げた少年へ歩み寄った。
徐に、というよりまるで生気のない動作で橙也の方を見やった少年と目が合った瞬間、体中を虫が這いずり回るような寒気を覚えた。
「……はる」
少年は、笑っていた。静かに、まるで絵画のように。
「……ん?」
「げんじゃない。はる」
だが、目は笑っていない。それどころか、地獄の淵を覗いたかのように真っ暗だ。死んでいるといってもあながち過言ではない。その歪さが、寒気となって橙也の皮膚を這いずり回った。
「……あ、そうなのか。すまん。それじゃあさ、改めて。俺は幸田橙也。ここの職員で、年は二十五。よろしくな」
何とか寒気を抑え込み、会話を続行する。だが、差し出した右手はいつまでもそのままだった。
「……だれかの手をにぎるなんて、ぼくにはできない」
またしても俯いた玄の言葉が、突き刺さる。この少年の過去もまた通達されている。だが、それが少年にとって何をもたらすのか、理解の至らなさを悔やんだ。
「それを決めるのはさ、お前じゃない。俺がお前と握手したいんだ。ほら」
無理やりにでも右手を掴めば、それ以上対抗する気はないらしい。力の抜けた手を上下に振り、随分と一方的な握手を交わす。
「それじゃ、お前の部屋に案内しよう。ルームメイトとも仲良くやるんだぞ」
握ったままの手を引く。力のないそれはまるで死んでいるようで、冷えた指先が妙に不気味に感じられた。
「……よく見ろ。よく考えろ。自分と相手の戦力差を。弱点を。そしてさ、思い出せ。お前が得意な事は何だ? 有利な点はどこだ? それを把握するんだ」
玄が振るう鎌を易々と弾きながら、橙也がすまし顔で繰り返す。その悠々とした佇まいに苛立って、力任せに鎌を叩きつける。
と、そこで今まで受け止めていた橙也がするりと鎌を避け、余勢を殺しきれずにたたらを踏む。何とか踏み止まって鎌を持ち直した時には、盾が頬のすぐ傍にあった。風圧で、髪が揺れる。
「勝負ありだ。今日はここまでにするぞ」
その言葉に逆らう事なく、体の力を抜いた。
「……なあ、玄」
訓練終了後、すっかり暗くなった中庭で、橙也と並び腰掛ける。いつものようにひょいと渡された水筒を受け取って、一口含んだ。
「……何?」
こういう風に自然な会話が出来るようになったのは、いつの事だっただろうか。もう覚えていない。だが、つい最近だったような気がした。
「俺さ、ここを辞める事にしたんだ」
そんな思考に浸っていた玄の耳朶を打ったのは、そんな言葉だった。
「……そうなんだ」
「おいおい、もうちょっとさ、こうさ、『なんで?』くらいないのか」
茶髪を揺らして玄の顔を覗き込んだ橙也は、玄の目と視線を合わせて、小さく笑った。呆れたように、諦めたように。
「その微笑みが崩れる瞬間を見てみたかったんだけどさ、それももう叶わないな」
その戯言を聞き流し、淡々と言葉を紡ぐ。
「……いつ、出て行くの?」
「ん? ……ああ。さっき辞表を出したからさ、明日荷物を纏めてここを去る。実質今日で最後だな」
「……なんで?」
その言葉を聞いて、橙也はよくぞとばかりににやりと笑った。
「俺さ、わかんなくなったんだ」
その言い分に、首を傾げる。
「お前みたいな孤児がいる。お前ほど凄惨な過去を持つ奴は少なくてもさ、親に捨てられた、親が殺された、親が事故に遭った、親から虐待された、なんてさ。巣立っていく奴も多いけどさ、それ以上にここの門を叩く奴は引っ切り無しだ。お前のように心を閉ざした孤児だって。片手どころか髪の毛を使ってもさ、もしかしたら足りないかもしれない。それが俺は気に入らない。もしかしたらこんな職についているせいで多く見えているだけかもしれない。けどさ、だったらそれも含めて俺は実態を知りたい。願わくばさ、お前のような子供にさ、大人でさえ壊れるような重圧を背負わせるこの国を変えたい」
長広舌をふるった橙也が、どうだとばかりにこちらを見る。その視線から逃れるように顔を背け、ぼそりと呟いた。
「……もし、その途中で僕の仇を見つけたら。その時は……」
力がこもりすぎて尻すぼみになった言葉を、橙也は正確に受け取ったらしい。呆けたようにどこか遠くを見据え、ボソリと呟く。
「……それを知ってお前が平静でいられたらさ、教えに来る」
条件付きなのが気に入らないが、ともかく言質はとった。それに満足するとして、微笑みをやや深める。
「それじゃあ、頑張って」
「おう、全力以上に頑張ってくるさ」
いつの間にか、太陽はその残光さえ残っていなかった。




