其の拾肆
教室の引き戸を閉め、ほっと一息つく。すっかり暗くなった廊下の中で、茜は途端に訪れた疲労をこらえながら、鉛のように重い足を動かして歩く。
「おう、茜。やっと終わったのか」
不意に背後から掛けられた声に、体が跳ねる。反射的に右手を伸ばしてしまいそうになった自分を反省してから、息を整え、振り向く。
「ええ。合成魔術の実技とかもやらされましたから」
愚痴っぽくそう口にしてから、おどけたように付け足す。
「でも、怪我してた紫乃ちゃんの代わりを買って出たのはあたしですから」
「そうか、お疲れさん。親御さんが迎えに来てたぞ。そこまで送ろう」
くしゃくしゃと頭を撫でられ、くすぐったさに少しだけ身を捩りながら、その提案をやんわりと跳ね除ける。
「いえ、その前に、少し話したい事があるんです。いいですか?」
「おう。構わないぞ。相談室で大丈夫か?」
一も二もなく頷いた宏緑に安堵した矢先、背後からまたしても唐突に声が響く。
「その話、私も混ぜてもらえないか」
「よお、黄衣。仕事はもういいのか?」
片手を上げた宏緑の問いに、黄衣はその怜悧な風貌をこれ見よがしに歪めた。
「後は報告待ちだ。……もっとも、まともに報告が上がってくるかは怪しいものだがな」
「なんだそりゃ。お前さんの部下は優秀なんじゃなかったのか」
ぼさぼさの頭を掻いた宏緑に向けて、黄衣は歪めた顔で呟く。
「私の部下の話ではない。警察の方だ。元々、警察と軍の仲は良好とは言えないだろう。国際テロに関わる捜査を軍が担当するのだって、『捜査員の安全確保』なんて建前は通じん。奴らにとってみれば、自分たちの土俵に土足で踏み込んできた余所者だ。……八坂銀輔の件もある、間違っても歓待などされないさ」
苦々しく付け足された言葉に、茜は俯いた。軍からの摘発によってグローリアとの関係が疑われ、辞任した警察庁長官の事件を思い出し、これからしようとしている事の重大性を思い出したからだ。
だが、宏緑はそんな茜には何も言わず、話を続けた。
「それじゃ、相談室の鍵を借りてくる。お前さんたちは先に行っていてくれ」
学校からスーパーを経由して玄の家に辿り着く。そこまでの過程で微笑みの仮面が剥がれ、疲れたような、呆けたような、ともかく力の抜けた顔をしていた玄を、さっさと風呂場に押し込む。その間に調理器具を拝借した紫乃は、先程の玄の言葉を思い出していた。
(あの男性を、僕は知ってるんだ)
それがどういう意味かはわからない。どこかで見かけた程度なのか、言葉を交わしたのか、はたまた世話になったのか、わからない。だが玄は、それ以上は帰ってからだと言ったきり、何一つ口を開こうとはしなかった。
包丁がまな板に当たって生まれるリズミカルな音を無心で奏でながら、紫乃は期待と不安が複雑に絡まりあった気分で、玄が風呂から上がるのを待った。
「……まず、これからする話はあたしの勝手な想像だという事をわかってください」
宏緑と黄衣に向かい合うようにして座った茜は、きっぱりとした口調で口火を切る。その切り出し方に、二人は茜の真意を察してくれたらしかった。
「わかった」
「了解した。続けてくれ」
その返答にほっと胸を撫で下ろしながら、唇を湿らせる。
「今回の襲撃、及び紫乃ちゃん誘拐事件の犯人についてです。いえ、黒幕、といった方がいいかもしれないですね」
二人の表情が、一様に強張る。
「もしかしたら、これは既に警察とか、十塚様はお気づきかもしれないですけど……単刀直入に言います。生徒会長、一ノ瀬蒼次様が関わっていると思います」
玄が告げたその事実に、紫乃は思わず、口に運んだビーフシチューを吹き出すところだった。
「一ノ瀬会長が!? どうして?」
「考えてみれば、簡単な事なんだよ」
神妙な顔で咀嚼していた玄が、口の中のものを飲み込んでから話し出す。
「君が誘拐された日、山代先生は用事で留守、副顧問も出張で前日から留守。十塚様が監督に来る予定だった」
その確認に、紫乃は頷く。
「ええ、けれど、十塚様は臨時任務で来られなくなり、仕方なく、代理が許される基礎訓練に変更したのよ」
「そうだったね。だからこそ、犯人は会長に絞られる」
玄の言っている事まで追いつかず、必死で頭を回転させる。そんな紫乃を見かねたのか、玄は少しだけ笑みを浮かべて、解説を始めた。
「あの日、ミストレスは学校前の道路で待ち伏せていたテロリストたちに誘拐された。けど、あの日のあの時間にミストレスがあそこにいる事は、事前にわかるはずがない。十塚様の遅刻が決定した時点で報告がいっていて、なおかつランニングコースを設定した会長以外には」
はっとする。いつの間にか、互いの箸は止まっている。
「会長がグローリアと繋がっていると仮定した場合、辻褄が合うんだよ。十塚様の主な任務はグローリア対策。なら、あの日の早朝、会長の指示でグローリアが適当な場所で動きを見せる。当然十塚様は出動し、その結果部活に遅刻する事になる。そうすれば、部活は代理の先生を立てて基礎練習になるでしょ? 後は簡単。あらかじめ実行犯を待機させていた場所を、ランニングコースに入れればいい。武器を預けるよう指示し、代理の先生にはマネージャーと一緒に校門前でタイムを計らせる。襲撃地点を学校から少し離れた場所にすれば、助けが来る前に誘拐は完了する」
玄が解説した仮説は、確かに辻褄が合う。だが、それは決定打となるには少し弱い。
「確かに辻褄は合うわ。けれど、それだけで断定するには、少し弱いのじゃないかしら」
その指摘に、玄はあっけなく頷く。
「うん。この仮説を確かめるには、十塚様の任務内容が何だったのか、しっかり把握するしかない。それがあっても全ては状況証拠。だから言ったでしょ? これは僕の想像に過ぎないって」
「仮説の裏づけのために教えてください。あの日、十塚様に与えられた臨時任務は、なんだったんですか?」
仮説を述べ終えた後、間髪入れずに尋ねる。苦々しい顔をしていた黄衣は、表情と同じ声音で答えた。
「想像通りだ。あの日は、埼玉の方で構成員が集まっていると情報を受けて真偽の確認に向かった。情報自体は正しかったが、当の構成員たちはもぬけの殻だったな」
「山代先生は、部活の日程を定めた時点で、留守を報告していたんですよね?」
黄衣とは違い、悔しそうな顔をしていた宏緑もまた、頷いた。
「俺もそうだし、副顧問の村田先生も留守なのは日程を出した時点でわかってた。休みにしようかとも思ったが、『お盆休みが入るから、その前はできるだけ休みたくない』と蒼次に言われて……そうか、まんまとしてやられたわけか」
「おそらくは、そうだと思います」
歯噛みする宏緑には悪いが、ここで取り繕っても仕方がない。
それは黄衣も同じなのか、さっさと次の話題を催促してくる。
「それで、今回の襲撃に関しても、か?」
それに、茜は躊躇なく頷いた。




