其の玖
紫乃の右手が閃き、緑の軌跡がレイピアの軌道を空間に残す。右、左、切り払い。
だが、どれも痛撃どころか掠る事すらせず、全て空を切る。
何度目かの突き。一切の無駄を省いた動きで回避した女性を追い、回転しつつ切る。それもまた、直剣に阻まれた。
にやりと笑う。これでいい。紫乃の狙いは最初から直撃になどない。どれだけスムーズに、女性に疑いを抱かせずに、
「『雷槍呪』!」
茜の射線上から外れられるか。
飛来した雷の槍を避け、女性が飛び退る。それを追って、地を滑る。
突進の勢いを乗せた突き。それを逸らした女性は紫乃とすれ違うように前へ一歩。背後を取られる。
前進の勢いを殺さず、半回転しての右薙ぎ。遠心力の乗ったそれが紫乃を切り裂く一歩手前で、左手のダガーが割り込んだ。
金属音が轟く。不安定な体勢のせいで踏み止まれず、加速感が体を包む。
「『焔弾呪』!」
「『爆焔反照呪』」
茜の援護も、撥ね返される。
「『風槍呪』!」
その隙を突いた一撃も、難なく避けられる。
「『火炎柱』」
反撃の魔術。初めて聞くその名前は、おそらく神憑き固有のもの。
「防御体勢! 魔術は破られるわ!」
「了解!」
数メートル離れた茜に指示。自らも足に力を溜め、どこから何が出てきても対応できるよう気を張り詰める。
瞬間、地面から焔が噴き出した。間欠泉のように噴き上げるそれは柱のように広場を縦断し、周囲を焼き尽くす。そして、断続的に一本、二本と増加し、瞬く間に紫乃を囲んだ。これでは、動けない。玄が見せた無効化魔術が羨ましくなる。だが、ないものねだりは意味がない。
「紫乃ちゃん!」
「古来より永きに渡りて世を治めたる八百万の神々が一柱、『弥都波能売神』よ。我が魂を贄とし、その力の一片を我が力として貸し与え給え――――」
これは賭けだ。もしも発動しなければ、本当に手詰まりになる。
「――――『激流瀑布』」
水系統の固有魔法。滝のような水の結界を作り出し、触れた攻撃全てをそのまま撥ね返す、最強の防御魔法。既に発動しているこの未知の魔術に対して効くかどうかは五分五分だが――――。
紫乃の祈りに応えたわけではないだろうが、生まれた滝は火焔の間欠泉に触れた瞬間、それを掻き消した。
開けた視界の先では、同じような間欠泉。それに囲まれる前に逃げ出したのだろう、女性が相変わらず冷徹な瞳で紫乃を睨んできている。
反撃体勢が整う前に、畳み掛ける。
レイピアを握り直し、女性へと突進。振り下ろされた直剣はダガーで逸らす。左腕から痺れを振り払うように大きく振り払い、レイピアを突き出す。霞むほどに加速したそれは宙を貫き、反対に女性の直剣が戻ってくる。凄まじい速度で振り払われたそれをダガーで受け止めるが、勢いを殺しきれず、鈍い煌きが宙を舞う。
「『雷弾呪』!」
空いた左手を突き出し、雷の弾を発射する。それを避けた女性の動きを先読みし、そこへレイピアを突き出す。体重を乗せた、全力の刺突。
無感動な瞳を少しだけ見開いた女性が、弾く。だが、今女性の体勢はギリギリのはず。
「『閃光捕縛呪』!」
地面から飛び出した鎖。案の定、避けきれなかった女性の右腕を絡め取る。それだけで、今は十分だ。
「……右手と左手を、切り離す感覚……別の体として意識する……」
ぶつぶつと呟いている茜に、一言だけ叫ぶ。
「やって!」
それだけで、茜は顔を上げた。現状を認識し直し、得意の理論を展開しているらしい。残念ながら、それを見る事は叶わないが。
なにせ紫乃もまた限界だ。地面から伸びる鎖は、紫乃の右腕と繋がっている。女性とは思えない力で引かれるそれを押さえられるのは、後十秒ないだろう。
「『雷弾』、『焔槍』……『雷焔槍』!」
驚愕に目を見開く紫乃と女性を前に、茜は左右の手で違う魔術を発動させ、あろう事かそれを合わせて射出した。
スパークが飛び散る焔の槍が、通常の二倍以上の速さで飛来する。それは無理やりに身を引いた女性の腹部を掠め、柱の一つを爆散させた。
「……外した……」
茜が絶望したようにそう呟くが、それでも始めてのダメージだ。紫乃の中で、希望が見え始める。その思いが、突き動かす。
何故かはわからないが、玄はいまだ姿を見せる気配はない。それでも、紫乃と茜だけで何とかなるような、そんな期待。
無音の呼気と共に床を蹴り、女性へ肉薄する。真横に振り払われる直剣をスライディングで掻い潜り、その後方、ダガーを拾う。構えを整える暇もなく、女性の背中に突っ込んだ。
右手を閃かせ、照準などしないままに連続で突き出す。背後の茜を警戒しているのか、レイピアを避ける動きが鈍い。だが、それでも悠々と刺突を避ける女性の戦闘能力は生半可な攻撃で揺らぐようなものではない。
だから。
大きく右腕を引き、渾身の突きを放つ。大きな予備動作を女性が見逃すはずもなく、いとも容易く軌道を見切った女性はそれを易々と避ける。同時に、目の前に現れる直剣の切っ先。それを、無理やり体を回転させ、左手のダガーで弾く。そして、その回転はつまり、レイピアが女性の方へ動くという事で。
「ッ!」
「はあぁ!」
両腕に渾身の力を込め、振り抜く。左手に硬い感触が、右手に柔らかい感触があった。だが、右手に集中したせいで防御がおろそかになり、直剣が右肩から胸の中心まで切り裂く。互いに跳び退ったおかげで深手とはならなかったが、ワイシャツやその下の下着が切り裂かれて垂れ下がり、肌から血が玉のように滲み出てくる。
「紫乃ちゃん、大丈夫!?」
茜の傍まで飛び退り、左手でナイフと一緒に服の切り口を握りこむ。じくりと痛む傷に、眉を顰めた。
「……ええ。そこまで深手ではないわ。けど」
右腕を、少し持ち上げる。案の定、鋭い痛みが走った。
刹那、思考が走る。不必要なほど高性能な頭が、結論を弾き出す。
視界の先で、女性がぴたりと構え直す。だが、それ以上動くつもりはなさそうだ。紫乃を警戒しているのか、何かを待っているのか。今は、どちらでも構わない。
「……茜、あなたは今すぐ逃げて」
隣で、茜が息を呑む音がした。
「……なんで?」
「あの女性は強いわ。さっきまでは様子見だったのよ。見なさい」
視線で指し示す。女性の全身から溢れ出る気迫は、先程までの数倍だ。
「警戒レベルが上がった今、おそらくわたしたちだけで凌ぐのはまず不可能」
ずきずきと痛む傷が、それを教えている。おそらく、次はない。腹部を伝う血の感触に内心で身震いしながら、努めて平静を装った声で告げる。
「あの女性の狙いはわたし。なら、あなたが逃げても追う事はないでしょう。だから、今のうちに。できれば神木か山代先生を連れて来てくれるとありがたいわね」
最後に付け足した言葉は、方便だ。二人はおそらく他の何かに手間取られてこちらへ駆けつける事ができない状況にあるのだろう。そこに茜が行ったところで、片が付くかと言えば答えは『いいえ』だ。
だが。一人で逃げろと言ったところで聞き入れられない事も、わかっていた。
「……じゃあ、あたしが時間を稼ぐから、紫乃ちゃんが連れて来て」
「追いつかれて終わりよ。二人で逃げても結果は一緒。あなたはあの女性にとって障害であって目的ではないの。それなら、本当に邪魔になれば容赦なく殺されるわ」
正論。だが、理詰めだけで追い詰めれば、逆に反発される。だから、早口にまくし立てた舌を一度休め、息を吐く。
「……それに、わたしは逃げられない。逃げたくないのよ。……ここで逃げたら、わたしはきっとダメになる」
零れ落ちたその呟きは、奇しくもいつかの玄と同じだった。そこに込められ思いの重さは違うかもしれない。けれど、確かに同じものだ。
「……護られるだけのお姫様は、嫌なのよ……!」
紫乃が常日頃から言い続けている、自らの矜持を呟く。それは、憧れの裏返しでもあって。
どんなに楽だろう。誰かの背中に隠れ、自ら剣を握る事すらせず、悲鳴を上げるだけの生活は。疼くような痛みを、肌を粟立たせる恐怖を感じる事もなく、玄が振るう鎌に護られるだけの生活は。安心で、安全で、そして快適だ。
だからこそ、そんな自分を想像するたびに反吐が出る。
けれど、現状はそれに近い。勇んで立ち向かう分、もっと性質が悪いかもしれない。
紫乃は弱い。どうしようもなく。玄の横に並んだところで邪魔にしかならないほどに。
だから、立ち向かう。弱さを言い訳にしないために。勝てずとも、逃げない。この戦闘から、ありとあらゆる全てのものを取り込むために。
「……なら、あたしもここに残るよ。たぶん、神木君はすぐに来るから」
説得のための言葉を吐き出そうとした紫乃の横に並んだ茜が、毅然と前を見たまま言い募る。
「あたしだって、ここで逃げたらダメになるよ。もう、遠くから見てるのは嫌なんだ。……あたしは逃げない。紫乃ちゃんの隣で、戦ってみせる。……これからも『友達』だって胸を張るために」
ゆっくりと、詰めていた息を吐く。何の事はない、茜もまた紫乃と同じだ。逃げる事を嫌い、取り残される事を恐れている。
「……なら、三秒後。全力で」
レイピアを握り直す。左前の半身。ダガーの切っ先を女性の正中線に据え、レイピアの切っ先をぴたりと突きつける。女性もまた、直剣を握り直した。空いた左手は緩く曲げられ腰元に。
二。
一。
女性の左手が、伸びた。
「『劫火』」
突きつけられた左の掌。ほとばしる焔。地を這い、宙を舞う焔の波。それを知覚した瞬間――――茜を抱えて全速力で後方へ。
「『激流結界呪』!」
ガシャン、と情けない音を立てて茜が発動した結界が割れる。それを、紫乃は見てなどいない。
「『焔弾呪』っ!」
右手を突き出し、火焔の弾を射出する。肥大したそれは進行方向に立ち塞がるガラスと窓枠を吹き飛ばし、陽光降り注ぐ中庭の上空に綺麗なイルミネーションを創り出した。
破壊した穴に突進し、強く地面を蹴る。
「あぐっ!」
同時に焔が足首を舐め、激痛が生まれた。
崩れる姿勢。半回転した視界に映る焔。背後から吹きすさぶ風。陽光を反射する窓。腕に抱え込んだ茜が声を上げる。
視界の端で、黒と白の人影が急速に大きくなっていた。




