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其の弐

 黒板の上に設置されたスピーカーから、最近流行ったらしいアイドルグループの歌が流れ始める。今年の学校祭テーマソングだというそれは、作業終了の合図だ。

 紫乃もまた、手を止めて顔を上げる。長い時間集中していたからか、首がバキバキと鳴った。

「それじゃあ作業終了でーす。片付け始めてー」

実行委員に選出された生徒が、声を上げる。それに従い、紫乃も手元の筆を水入れに突っ込んだ。

 紫乃の手元には、おどろおどろしい字体で『恐怖の舞踏館』と書かれた大きな模造紙。これに指定された色を塗る事が、紫乃の仕事だ。幸い細かい作業は得意な方。それなりに楽しんでいる。

 周囲では、クラスメイトたちがそれぞれの仕事を止め、色とりどりの紙や布、ビニールなどを束ねている。それに習い、紫乃も水入れを持って教室を出た。

 現在、九月二十七日。神奈川県立第八魔術科高等学校文化祭、通称白山祭の一週間前。その時期にふさわしく、現在八高では特別規則が設けられている。曰く、『授業終了後から五時までは、クラスもしくは文化部の白山祭準備が運動部の活動よりも優先される』と。クラスの準備があれば部活に遅刻しても何の問題もない他、体育館や魔道館、各実習室などの使用許可も優先して下りる。

 そしてその例に漏れず、紫乃も部活よりクラスでの準備を優先していた。おそらく大半の部員がそうだろう。

 トイレの洗面台に立って、濁りきって黒くなった水を流す。自分の手が所々赤と黒に染まっているのを見て、一人苦笑した。

 紫乃が所属する一年一組の企画は、お化け屋敷。定番と笑うなかれ、八高内では少数派ともいえる。確か、全学年二十七クラスのうち、二十クラスが飲食店関係、十クラスが映像や演劇関係、五クラスがお化け屋敷だ。残り二クラスは迷路と擬似カジノだったか。

 閑話休題。クラス内で協力して、お化け屋敷の準備をするのは文句なしに楽しいといえる。少々周囲が気を使いすぎているきらいはあるが、それにも目を瞑れるほどに。

 だが、部活の時間が削られるとなれば話は別だ。

 強くならなければならないのだ、紫乃は。もっと高みへ。玄と共に。そのための時間は、一分一秒でも惜しい。

 だというのに、学校祭の準備に追われ、部活の時間は一時間半がいいところだ。もちろん、家に帰ってからは夕飯の支度や勉強など、他にもやらなければならない事がある。それでも九時頃までは玄と組み手をしているが、せいぜい一時間だ。やはり、少なく感じる。いや、現に少ないのだ。

 物思いを振り払う。洗い終わった筆と水入れを付属の布で丁寧に拭き、手を洗う。愚痴っぽくなる思考は水と共に排水管へ流して、トイレを出た。


 片付け終了後、風のように教室を出る。騒がしくならない最大限の速度で三階から一階まで下り、渡り廊下を踏破する。その先、実技棟の端にある更衣室へと角を曲がったところで、見慣れた人影の見慣れない後ろ姿が目に入った。

「神木」

小さい声のはずだったのに、静かな廊下では事の外大きく響いて、我ながら少し驚く。

 呼びかけられた前方の人影が、長い黒髪を揺らして振り向いた。その中性的な顔に浮かんだ微笑みが、いくらか疲れているように感じられる。

「……ああ、ミストレス。今から着替え?」

「ええ。あなた、その髪どうしたのよ」

触れるべきではないかとも思ったが、好奇心を抑えきれず尋ねる。答えは、疲れた苦笑いだった。

「クラスの女子にやられたんだ。すぐ外そうと思ったんだけど、生憎髪を加工する技術に長けてなくて。下手に触って痛いと嫌だし、このままなんだよね」

溜め息をついた玄の、特徴的な長髪は今、両即頭部の高い位置で二つに結われていた。紫乃とてあまり詳しいわけではないが、確かツインテールと呼ばれる髪型だったと記憶している。

 肩甲骨の辺りでゆらゆらしている二つの束を見やり、次いで玄の苦々しい表情を見る。少しだけからかってやりたくなって、精一杯笑顔で尋ねる。

「わたしが解いてあげるわよ?」

「え、頼んでいい?」

食いついた玄に、満面の笑みで笑いかける。

「冗談よ。しばらくその髪型でいるといいわ。かわいいじゃない」

意地の悪い言葉と共に、玄を追い抜かして更衣室に入る。扉が閉まりきる寸前に盗み見た玄の表情は、信じられないとでも言いたげだった。その愕然とした表情にいたずら心が満たされていくのを感じる。

 ほっと一息つき、気持ちを切り替える。目の前に置いたジャージに意識を集中し、ワイシャツのボタンに手をかけた。

 急いで着替えなければ。何しろ、あの熱心な顧問は既に実習室で待っているはずなのだから。玄がここにいたという事は、そういう事だ。それに、顧問がいなくてもコーチはいるだろう。

 練習ができるのなら、その時間を最大限活用せずになんとするか。

 学校指定ジャージのファスナーを首元まで上げ、訓練用レイピアを掴んだ。

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