其の壱
紫乃と別れ、階段を上る。夏休み中は閑散としていた普通教室も、今日からはまた騒がしくなるだろう。なにせ、今日は始業式。今日から二学期として、また学校が始まるのだ。
廊下で名前も知らぬ生徒とすれ違うたびに、視線が突き刺さる。挙句の果てには教師の視線も時折混じる。その居心地の悪さに辟易しながら、教室の扉を開けた。
特有のけたたましい音にすら苛立ちながら、ふと紫乃は普段こんな気分だったのかと思いつく。その考えが妙に面白くて、意図せず口元が緩んだ。最も、家を出た時点から緩みっぱなしで固まっているが。
扉を開ければ突き刺さる視線。これはいつもと変わらない。けれど、普段ならすぐに消えるはずの視線が、今日はいつまで経ってもへばりついたままだ。
ため息をつきたくなる気分を無理やり押し込めて、教室後ろに設置された自分のロッカーを開く。腰から抜き取った刀を鞘ごとロッカーに押し込め、ついでに一時間目の道具を取り出す。
その途中、後ろから声を掛けられた。
「よう、神木」
後背に誰かが立っている事は把握済み。だから特に驚く事もせず、自然に振り向いてみせる。
「おはよう、品川君。どうかしたの?」
その問いすら、本来ならば不必要なものだけれど。
「……あー……いや、何でもない」
「そう」
それっきり。会話を続ける努力などしない。ただ、取り出した道具を持って自分の机へ向かう。品川もまた、戸口近くに集まっていた友人たちの方へ苦笑いで歩いていった。
「おはよう、神木君。久し振り」
「久し振り、桜井さん」
机についた玄を出迎えたのは、茶色い髪と少しだけ色が濃くなった顔の茜だった。夏休みを使ってすら睡眠不足は解消されなかったのか、濃い隈は健在だ。
「少し日焼けした?」
そう聞けば、茜は恥ずかしそうに笑う。
「ちょっとね。おばあちゃん家行ったから。そういう神木君は、相変わらず白いね」
言われて、自分の手の甲を見る。確かに、周囲の男子はおろか茜と比べても白いと言わざるを得ない。
「夏休みは、特にどこも出かけなかったからね」
「そ、そっか」
茜の視線は、定まっていない。妙にそわそわしているのは、何も始業式だからというわけではないだろう。
「ニュースの事でしょ?」
仕方なく、核心を突く。ぎょっとしたように玄の方を見やった茜は、その黒縁眼鏡の向こう側から、諦めたような視線を投げかけてきた。
「鋭いね。神木君に対して隠し事は無理かな」
「そうでもないよ。今回がわかりやすかっただけだと思う」
周囲が聞き耳を立てている事は承知で、会話を続行する。この居心地の悪い空間が少しでも解消されるなら、ある程度の情報開示もやむなしだ。
「あはは……でも、根堀り葉掘りするのは、帰りに紫乃ちゃんと合流してからにするかな。今は、そんな時間もないし」
そう言った茜の視線は、教室の前方に向けられている。釣られてそちらを向けば、丁度宏緑が扉を開けたところだった。
ぼさぼさ頭が、気だるそうに、けれど隙の無い動きで教室へ入ってくる。瞬間、空気がざわめいた。
「ほら、ホームルーム始めるぞー。夏休みボケで遅刻した奴はいないか?」
何食わぬ顔で話し始めた宏緑の右袖は、冷房の風で揺らめいている。それに触れるつもりの無さそうな顔の宏緑は、そのまま淡々と話を進めた。
「あ、そうだ号令してなかったな。号令係、頼む」
シン、と沈黙が降りる。号令係である最後列の吉田は、ただ呆けた顔で宏緑を見ていた。
「号令係―。おーい、小豆!」
「ひゃ、はい! すいません! 気をつけ、礼!」
立て続けに様々な言葉を叫んだ吉田小豆は、運動部らしいきびきびとした声で号令を掛ける。それに合わせて会釈した全員を満足げに見渡した宏緑は、先程までと変わらぬ調子で口を開いた。
「んじゃ、気を取り直して。遅刻と欠席はいないか? ……よし、じゃあ今日は短縮日課で四十五分授業、時間割は一時間目に始業式があって、その後国語、理論魔術基礎、学活で午前授業だ。部活開始は授業終了後から。他に何かあるか?」
静まり返った教室で、そろりと手が挙がる。それは申し訳なさそうに、そして戦々恐々というように、自信なさげだった。
「お、どうした?」
「山代先生、右手、どうしたんですか?」
誰もが気になりながらも誰一人触れようとしない話題に切り込んだからか、沈黙が一層深くなる。身じろぎの音すら、聞こえなかった。
「ああ、少し事故にあってな。仕事には差し支えないから心配するな」
はぐらかす宏緑の表情はいつも通りで、玄の胸にちくりと痛みが走る。
自らのせいで負わせた傷がどれほどのものなのか、改めて感じたようで。
宏緑を、直視できなかった。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ、また明日」
「また明日ね」
茜と別れ、電車を降りる。散々質問責めにして満足したのか、小さく手を振る茜の顔は満面の笑みに彩られている。
対して、紫乃と玄は疲れた顔をしていた。
「あれほど根掘り葉掘り聞かれるとは思わなかったわ」
「あはは……まあ、気になってたんだよ」
乾いた笑いを漏らした玄は、茜のフォローもおざなりだ。自らの状態を素直に顔に出す玄に少しだけ口角を上げながら、紫乃は会話を続けた。
「そういえば、あなたたちのクラス、文化祭の話し合いは進んだの?」
その問いに、玄は苦い顔を見せる。
「うーん……まあ、ね」
「企業秘密ってわけね。まあいいわ。それで、今日も夕飯は食べていくのでしょう?」
確認という名の、命令。玄の食生活がおざなりだという紫乃の進言から、あれよあれよという間に決定した、新しい習慣。
玄の苦笑いを見ながら、紫乃はわざとらしく口角を引き上げた。




