其の拾
玄が立ち上がった勢いで、鎖が弾け跳ぶ。思わず一歩後退し、顔をのけぞらせた。
だが、一番近くにいるはずの宏緑は、砕け散った鎖の欠片など意に介す風も無く、ただ静かに言葉を続ける。
「このままじゃ、お前さんがただの復讐鬼と化して琥珀を追った挙句、空っぽな人間になるって事くらいはわかるぞ」
それに言い返す気なのか、玄は勢いよく身を乗り出し、そこで口を閉ざした。
「……あなたは、何もわかってない」
代わりに、炎を無理やり押さえつけているような、苦しげな言葉が漏れ出す。
「確かに、そうかもしれないな」
「僕にはもうそれくらいしか残ってないんだ。なのにあなたは、それを奪おうとする」
玄の顔には、もう表情は無い。歪みさえも通り越して、能面のようになっていた。
それすらも気にしないように、宏緑は続ける。
「お前さんには、本当にそれしかないのか?」
「無いよ。僕にはもう、それしかない」
紫乃の中で、何かに火が点くのがわかる。だが、『三枝の娘』として鍛えられた精神力でそれを押さえ込んだ。今は、二人の邪魔をするべきではないとわかっていたから。
「……ほらみろ。もう既に空っぽじゃないか。空っぽのまま、復讐もできないままで、お前さんはこれからどうするつもりだったんだ。言ってみろ」
玄は答えない。ただ、先程よりも暗い瞳で宏緑を見ていた。
それを、宏緑は『答えられない』と取ったようだった。さらに眉根を寄せ、声に厳しさが乗る。
「言えないか? そうだよな。お前さんには、復讐しか残ってなかったんだから」
ふと、玄の腰の辺りに視線を下ろす。そこにあった玄の拳は、自分の掌すら突き破りそうなほど、握り締められていた。
「……なあ、玄。お前さん、そんな姿で紫乃の隣に立つつもりか? 復讐のための剣で紫乃を守れるのか? そんな顔して、紫乃と笑えるのか?」
玄の拳は、力を込めすぎて微細に震えている。何かを言おうとしているのだろう、引き結ばれた唇が薄く開くが、すぐに閉じた。
その代わり、原型を留めていないワイシャツの裾が翻った。
「神木!」
咄嗟に名前を呼ぶが、返事はない。それどころか、見る見る遠ざかっていく。それは常人が普通に走るよりは少し速いものの、普段の玄よりは遅い。だが、それでも遠ざかっている事に変わりは無い。
それを追いかける前にせめて一言言っておきたくて、紫乃は右腕のない教師を見据えた。脳をフル回転させ、言葉を選ぶ。
「山代先生」
「おう、どうした」
「先生には感謝しています。わたしではあんな事は言えませんでしたから。先生の言葉は神木を想っての事だと理解もしています。それ以外の道がなかった事もなんとなくですが察しています。……その上で言わせてください」
宏緑と正面から視線を合わせ、全身全霊を込めて睨みつける。
「わたしは、あなたを許せません」
何か言われる前に、踵を返す。
既に遥か前方へ走り去っていく黒髪を追って、雨の中へ飛び出した。
「いいのか? あのまま行かせて」
走り去っていく蜂蜜色の髪を見ながら、黄衣の問いに肯定する。
「いいんだよ。ここからは、俺たちじゃどうしようもないからな」
視線を黄衣へ移す。その視線を受けた黄衣はといえば、呆れたように肩を竦めた。
「しかしまあ、嫌われたな」
「かもな。けど、今嫌われても、いつかわかってくれればいい」
「相変わらずだな。貴様は昔から変わらない」
「そうか? これでも大人になったつもりだったんだけどな」
おどけて見せれば、黄衣は怜悧な美貌をしかめる。その様子に宏緑は笑みを引っ込めた。
「何か失敗したのだろう? 言ってみろ」
ため息一つ。
「さすが、お見通しか。……最後まで、紫乃は『三枝の娘』のままだったんだよ。言いたい事を押し込めて、『周囲が望む自分』のままだった」
苦々しげに吐き出した宏緑の頭上から降ってきたのは、笑い声だった。
「まるで馬鹿馬鹿しいってか?」
皮肉げにぶつければ、意外にも黄衣は首肯した。
「ああ。それこそあいつら自身の問題だろう。それにな、貴様は知らないだろうが、三枝は神木が絡めば素が出る。あいつら二人ならば、互いで互いを変えられる」
何か、宏緑の知らない二人を見たのだろう。そう告げる黄衣の三白眼気味な目には、証拠に裏打ちされた自信があった。
「……それなら、まあいいか」
「そうだ。それにな」
すぱん、と軽い衝撃が頭を襲い、思わず目を閉じる。
その衝撃の張本人はといえば、振り切った手を引き戻す素振りも見せず、見上げた宏緑を見下ろしている。怜悧な雰囲気の顔は今、その迫力が三割増しだ。
「いい加減にしないと、本気で怒るぞ」
「何の事だよ」
「丸投げした私も私だが、貴様も貴様だ。何故引かなかった。貴様の腕なら、そんな怪我を負う前に撤退するくらい可能だっただろう。その上、何故わざわざ憎まれ役を買って出た」
「道を踏み外した生徒と向き合う機会を放り投げるほど、落ちぶれてないんでね。それに、琥珀も腕を上げていたからな。どっちにしろ何かしら食らってはいただろ」
肩を竦めて見せれば、右腕の治療をしていた救急隊員がこれ見よがしに顔をしかめる。苦笑しつつ謝罪をしてから、いまだ厳しい顔の黄衣に向き直った。
「嫌われ役をする理由は」
「別に嫌われようとは思ってないって。ただ、俺にはああする以外の方法がない。あいつに必要なのは、憐憫でも同情でもなくて、正論だからな」
「そうか」
今しがた叩かれた箇所を、叩いた手に撫でられる。その柔らかな感触に、思わず抵抗を忘れた。
「……がんばったな」
「三十になった独身男にこういう事をすると、勘違いするぞ」
精一杯ふざけて返す。それを受けた黄衣はと言えば、口元をにやりと曲げた。
「貴様にそんな感情が無い事くらい、当の昔から知っている」
ため息をついて、いまだ頭に残る手にされるがまま、地面を見つめた。




