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其の拾壱

 数百メートル先を走る、濡れた黒髪を追う。魔力は活性化済みとはいえ、この雨のせいで足場が悪く、速度が出ない。それは前方の玄も同じらしく、差は少しずつ縮まっているが。

 水溜りを踏み抜き、顔をしかめる。前を走る玄はそんな事気にする余裕も無いらしく、何のためらいも無く深い水溜りに足を突っ込んでいる。

 「神木! 神木ッ!」

何度呼んでも、返事どころか振り返る事すらしない。紫乃の声が聞こえていないのか、聞こえている上で無視しているのか。

 前者であってほしいと切に願った。

「神木! 待ちなさい! 玄!」

季節外れに降りしきる雨のせいで、全身ずぶ濡れだ。前髪は額に張りつき、制服が水を吸って重い。時折滴った水が目に入りそうになる。スカートが足に纏わりつき、動きを阻害する。

 それでも、足は止めない。速度を上げ、濡れたアスファルトを蹴る。

 少しずつ、少しずつ距離が縮まり、研究所の騒動が聞こえなくなる頃には、目の前だった。

 手を伸ばす。その濡れた肩を髪の毛ごと掴み、強引に足を止めさせる。力いっぱい引いて、振り向かせた。

 その先にあった顔に、息を呑む。

 そこにあったのは、絶望だった。

「……何」

憔悴したように掠れた声で問われ、思わず言葉に詰まる。咄嗟に追いかけてきたはいいものの、何を言うのか、何をしたいのか、何も考えてこなかった。

「い、いきなり飛び出して行ったから、追いかけてきたのよ」

当たり障りの無い言葉で一旦会話を成り立たせ、その間に頭をフル回転させる。

「……ああ、ごめん。少し一人にさせてほしい」

けれど、思い浮かべたいくつものパターンは、どれも当てはまらなかった。

 やむ終えず、思い浮かべた言葉だけで会話する。いつだって『台本』や『例題』があった紫乃にとって、経験の無い事。

「……嫌よ」

「……何で」

「嫌よ。今あなたを一人にしたら、わたしも一人じゃない。あなたとわたしは常に一緒でなければならないのよ? それは嫌よ」

玄の奥歯が、嫌な音を立てる。けれど、玄はすぐに全身を弛緩させ、真っ暗な目で紫乃を見据えた。

「……聞いたでしょ。僕は君の隣にいられない。君を守れない。君と笑えないんだ」

「そんな事は関係ないわ。あなたはわたしの隣でわたしを守り、笑う。これはあなたが雇われた時点で決定事項よ。そして、あなたの雇い主は書類上わたし。なら、わたしの指示に従いなさい」

「でも僕は、何もできなかった」

「関係ないわ。一番最初にわたしを助けに来たのはあなたよ。時間を稼いだのもあなた。ガーディアンとしてなら、それで十分よ」

「でも僕は、あいつを殺せなかった! あいつに届かなかった! あいつを殺す事だけを考えて生きてきたのに! あいつを殺すために強くなったのに! 僕は、僕は! 唯一の贖罪(しょくざい)すら、できなかった!」

いつの間にか、玄の顔を濡らす水は塩分を含んでいた。それをわかっていながら、紫乃は何も言わない。ただ、玄が吐き出すに任せている。

 それくらいしか、何も知らない紫乃にはできないから。

「みんなを殺した僕ができる、唯一の贖罪は、仇討ちだったのに! みんなを狂わせたあいつらを殺して、みんなの死んだ原因に罰を与える事だけだったのに! それすらできないで! 僕はまたのうのうと生き延びた!」

紫乃の襟が握り締められ、強く引かれる。鼻先数センチまで近づいた、玄のぐしゃぐしゃな顔を見つめ、そっとその手に触れる。

「あの時、みんなを殺して一人だけ生き延びた僕が! 生きる事を許された理由は! 仇討ちだけだったのに! 僕は……何もできなくて……!」

ざあざあと音を立てて降りしきる雨の中で、玄の懺悔だけが耳朶を打つ。それ以外はもう、紫乃には聞こえていなかった。

「……僕の手は血で染まってるんだ。この色はもう二度と落ちない。先生に言われるまでもないよ。僕は、あの男よりももっと深いところに堕ちているんだ。友達をこの手で殺して、姉を見殺しにして、自分だけ生き延びた挙句、仇討ちすらろくにできない。僕はもう、生きる理由も、生きていていい理由も無い……!」

雨が、容赦なく紫乃たちに突き刺さる。

 その中で、叫び疲れたのか脱力した玄は、縋るように紫乃の肩に額を付けた。

「もう、僕は存在意義すらわからない。あいつを殺すために磨いたはずの力は、何一つ足りてなかった。あそこで逃げた僕にはみんなに合わせる顔も無い。あいつを殺して仇を討てば、少しはみんなも赦してくれると思ってたけど……それももう無理だ……」

ずるずると、玄の足から力が抜けていく。それに合わせるように、紫乃も水溜りに座り込んだ。ふつふつと込み上げる怒りに、身を焦がしながら。

  「……ねえ、ミストレス……僕は……どうしたらいい……?」

襟を掴んだ手に額を付けるような、紫乃に取り縋るような体勢。その、さまざまな水に濡れた頭を、見下ろす。

「……教えてよ……死んだところで、みんなに、合わせる顔なんて、ない。復讐に捧げるつもりだった、残りの人生を、のうのうと、生きるつもりも、ない。……僕は、どうしたら、いいの……?」

言葉の切れ目でしゃくり上げながら、玄は紫乃の胸に雨を降らす。髪もワイシャツもスカートも靴下も、何もかもがずぶ濡れで体に張り付く。だが、そんなものを知覚する余裕は、紫乃にはない。

 その言葉で、沸点を超えていたから。沸騰した紫乃の怒りが、少しずつ、器に亀裂を入れていく。

「……どうしてよ……」

襟首を掴む腕を振り払うように、座り込んだまま玄を突き放す。

「どうしてよ……!」

虚ろに、そして熱に浮かされたように紫乃を見る玄の襟首を、掴み返す。原型を留めていないワイシャツが、また少し破れた。

「どうして、わたしを見ないのよ!」

掴んだ襟首を引き寄せ、先程と同じように玄へ顔を突きつける。その虚ろな瞳に木霊せよとばかりに、叫ぶ。弾け飛んだ器から漏れ出した、怒りを全てぶつけるために。

「どうして過去ばかり見てるのよ! 過去には何も無い、あるのは未来だけだと、そう言ったでしょう!? あなたの傍にいるのは六年前の友達でも、お姉さんでもないわ! わたしよ!」

この期に至ってもなお、玄の瞳は虚ろだ。現在からも未来からも目を背けて、過去に縋っている人間の瞳。

 それが、紫乃は気に食わない。

「なのにあなたは、わたしを見ようともしない! どうしてよ……わたしを見なさいよ……あの男でも、過去のトラウマでもなくて、わたしを見てよ……!」

いつの間にか、頬を滴る水は塩辛い。唇の端を伝うそれを舐め取り、玄の顔を見つめた。

 「……きみを、みる」

まるで言葉を覚えたばかりの赤子のように、たどたどしい言葉。けれど、それは紛れも無く玄の言葉だった。微笑みの仮面に隠されていた、玄の本当の言葉。

「……僕が生きる理由は、それでいいのかな」

「……それだけじゃ、足りないわよ」

首を傾げ、その先を問うた玄へ、少しずつ、紫乃もまた本音を告げる。

「……『守るために』戦うの。わたしを、周囲を、命懸けで護るのよ」

努めて優しく、玄に囁く。それが、玄の(しるべ)となるように。

「……それで、何が変わる……?」

「あなたは、『みんな』を殺したかったわけではないのでしょう?」

襟首を掴んでいた手を離し、そっとその頬を包み込む。

「……うん」

「……それなら、『みんな』は救えなかったけれど、せめてわたしたちは護りきった。そう言う事ができるでしょう。殺す事ではなく、守る事で贖罪にするのよ」

玄は何も言わない。ただ、自分の中で納得できるかどうか、言葉を吟味している。

 そこに、紫乃は上乗せした。

「復讐じゃなく、わたしのために、わたしとあなたの周りのために、その一生を捧げなさい。存在意義が欲しいのなら、わたしがあげるわ。生きる理由も生きていていい理由も、わたしがあげる。だから、もう、命に代えても殺すなんて言わないで。過去に囚われないで。わたしがいるから。迷っても、辛くても、どこへ行っても。わたしはあなたの傍にいるから。……それを、忘れないで」

雨が降りしきる中、紫乃はそれ以降何も言わず、ただ黙って玄が泣き止むのを待っていた。

 灰色の雲はいまだ低く垂れ込めていて、雨足に弱まりの兆しは見えなかったけれど。

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