其の陸
きつく眉根を寄せた玄が、真一文字に引き結んだ唇を開く。その声は、低く掠れていた。
「……ミストレスを解放しろ」
それを向けられた琥珀はといえば、玄の形相などどこ吹く風、何食わぬ顔で嘯いた。
「断る。これから実験なんだ、よかったら見学していくか?」
「そうか。よかったよ」
そんな琥珀に向けて、玄が言い放つ。何が『よかった』のかと首を傾げた紫乃を余所に、玄は答えを響かせた。
「お前が変わってなくて。遠慮なく、斬り捨てられる」
「まるで、おれを知っているような口ぶりだな」
「覚えていないとは言わせない」
そう言う玄とは対照的に、琥珀はそらとぼけた顔で耳の後ろを掻いた。その小馬鹿にしたような態度に、玄の鎌を握る拳に力がこもる。今にも、鎌が折れてしまいそうだ。
「本当に、覚えてないのか……? 六年前の十二月十五日、長野県第十二区画四区の児童館でお前がした事も! 覚えてないと言うのか!?」
唾を飛ばして、我を忘れたように叫ぶ玄に熱量を奪われたように冷めた目で、琥珀が笑う。
「ああ、もしやあの時の『成功作』君か? なるほどなるほど、思い出したぞ」
「なら、死ね」
言うが早いか、玄が必殺の刃を振り上げて疾駆する。ここ半年で慣れている紫乃ですら、視認が困難な速度。
だが。
「おっと」
琥珀はそれを、軽々と避けてみせた。続く二撃、三撃もひらりと避け、距離を取る。机の上に置いてあった刀を手に取り、にやりと笑った。
「さて『神憑き』、しかも使える人間のいない『死系統』の魔術。いい研究になりそうだ。――――『焔装呪』」
「殺すッ!」
振り上げた鎌が、動く。大きく薙ぎ払った隙は柄で牽制して埋め、舞うように一回転して次撃へ。くるくると、大鎌の勢いを殺さぬように振り回す。そのたびに翻る長い黒髪。
そんな玄の猛攻を、琥珀は舌を巻く正確さでいなし、避け、逸らしている。霞むほどに加速した鎌の連撃を完璧に見切り、掠る事すら許さない。
呆然とその攻防を見つめながら、紫乃は一度戦闘を中断させ、自分の拘束を解かせるか、それとも縛られたままの状態で待機するか、思案していた。『三枝の娘』としての判断ならば中断。だが、『紫乃』としての判断ならば待機。
迷った挙句、紫乃は待機を選んだ。
ただ一心に、玄の無事を祈りながら。
足りない。
鎌を使った全力の戦闘は六年振りだ。動き方を覚えてからなら初めてと言ってもいい。
けれど、そんな事は言い訳にならない。するつもりもない。玄が今対峙しているのは、紫乃を誘拐したテロリストであり、六年来捜し求めていた仇なのだから。玄はこの日のために力を磨いてきた。血の滲むような修練を積んできた。ただただ、一心に強さを願って生きてきた。
なのに、足りない。
何度憎んだかわからない。何度恨んだか、何度呪ったか、何度その体を斬り捨てる想像をしたかわからない。それほどまでに憎悪を溜め込んできた顔が目の前にあるのに、後数センチ、ひょっとすると数ミリが届かない。そのほんの少しが、果てしなく遠い。
足りないのだ。
「せああッ!」
もっと速く。
「ふむ、身体能力上昇は、著しいと」
もっと強く。
「ほら、どうした? 殺すんだろ?」
もっと、もっと。限界も、臨界も超えて、その向こう側へ。鎌と自分を一体化する感覚。ただ、目の前の男を殺す事だけ考える。
右、上、左、下。斜め、縦、横。突いて、払って、下ろして、上げて。琥珀の隙を。次の動きを。考えろ。観ろ。感じろ。まだ、まだ足りない――――!
「せあああッ!」
「そろそろ、いいか」
視界の端で、琥珀の右足が跳ね上がった。
「かはっ!?」
左の脇腹から、衝撃が突き抜ける。視界どころか脳までがぶれ、受身も取れずに壁へ激突。がらがらと、そこにあった棚から実験器具を弾き落とした。
「とりあえずのデータは十分だろ。そろそろ大人しくしてくれないか。実験が済んでないんだ。彼女は最高の『器』なんだよ。試さなきゃ損だろ?」
そんな琥珀の言葉は、玄の耳に届きはしない。
衝撃が薄れ、跳ね起きた玄は左腕を伸ばし、叫ぶ。
「『八雷』――――」
玄の背後、巨大な円光の縁に沿うような形で八つ、雷の弾が生まれる。それは瞬く間に広がり、バランスボール大で止まった。
「――――焼き尽くせ!」
玄の声に、伊邪那美の声が被る。二重音声となったその掛け声通り、雷の弾はそれぞれが自立稼動しながら琥珀へと飛び出した。
一拍遅れて玄も駆ける。八つの雷を動かすイメージを保ちつつ、阻害しないよう迂回して。車に匹敵するその速度を以って、ランダムに方向を変えながらの全力疾走。
「『閃光結界呪』」
最初に迫った一つに対し、琥珀は最高威力の防御呪を放つ。だが、そんなもので『殺すための呪文』が止まるはずもない。
ガラスのような音を立てて結界を砕き、幾分か縮小した雷は迫る。それを跳び退って避けた琥珀へ、玄は聴覚を風の音で支配されつつ肉薄した。
振り上げた鎌を、斜め下へ振り下ろす。受け止めた刀ごと強引に振り下ろし、余勢を殺さぬようすれ違う。追撃の雷二つ。避けた先へ回り込んで右足をうなじへ蹴り落とす。
雷を警戒した琥珀の反応は、一瞬遅かった。
狙い違わず、上から振り下ろすような回し蹴りがうなじへ吸い込まれる。耐え切れず膝を突いた琥珀の背中へ、鎌を。
振り下ろした必殺の刃先は、透明な黒色の結界に阻まれた。
崩れる体勢。飛び起きる琥珀。迫る白刃。焼け付く額。赤くぼやける視界。
思わず右目を閉じる。瞬間、右側から先程の蹴りと同じ衝撃。崩れた体勢で、眼前に迫る火球を避ける事などできるはずもなかった。
「神木――ッ!」




