其の参
「……くッ」
急に挙動を変えたバンを必死で追いながら、歯噛みする。
路地へ入っていくバンを先回りするために電柱を足場に飛び上がる。だが、追いついたときには既にもう一つ角を曲がったところだった。
間違いない。誘拐犯たちは玄に気づいた。だからこそ、遠回りしてまで撒こうとしているのだろう。
路地を跳び越え、反対側の屋根に着地する。即座に駆け出し、再び大通りへと出て行ったバンのリアガラスを追う。これでは、いたちごっこだ。
いつの間にか燦々と照っていた太陽は灰色の雲の向こう側。風も強くなってきている。
天気が変わるほどの長時間、もしくは長距離をそれに気づかぬほど無我夢中で駆け抜けたらしい。まだまだ平気だが、少々呼吸も乱れてきた。
開きなれたGPSを確認する。光点はいまだ消えず、玄の数百メートル先をぐんぐん遠ざかっていっている。玄を撒いたと結論付けたのか、その挙動は直線的だ。
〈何をぼんやりしているのだ! 早く追わねば引き離されるではないか!〉
(いいんだよ、これで。少し距離を置いて、無駄な移動を避けるんだから)
玄の言葉に納得したかどうかは定かではないが、伊邪那美が押し黙る。
頃合を見て再び追跡を始めようとした玄の手元で、ついに光点が動きを止めた。それは玄から直線で一キロ程度離れたところにある、大きな建物の前。その名前は――――。
「――――旧魔術生物研究所……?」
人間以外で魔術を使用できる可能性のある生物を研究していたはずだ。現在は閉鎖されている。廃工場のように奴らにとって使い勝手はいいだろうが、こんなにも遠くである事に疑問を禁じえない。
〈誘拐犯共が根城にするには格好の場所という事だの〉
(それだけじゃない気もするけど、今はいいや)
頭を振って疑問を振り払う。地面を蹴れば、関係のないごったな思考は景色と共に後方へと流れ去っていった。
「……ろ……きろ……起きろ! おい!」
嫌悪感を催すようなだみ声と同時に強烈に揺さぶられ、紫乃は渋々目を開いた。朝だろうが昼だろうが、紫乃の寝起きはいつも最悪だ。頭は回らず、ただ理由のない苛立ちだけがある。
目を開いた先が、見知らぬ男だったとしてもそれは変わらない。
じろりと睨み付けて男を牽制しながら、自分が置かれた状況を思い出す。
思い出し、動かない体を必死でよじった。
「ああもう、暴れんなこのガキ!」
「おいおい、乱暴はやめてくれよ。大事な実験材料なんだ」
「は、申し訳ありません」
体が思うように動かないせいで、魔力の活性化も上手くいかない。
頭を動かし、自分を押さえつける毛深い手首へ大きく口を開く。ここで大人しく従うのは、紫乃のプライドが許さないのだから。
けれど、手首にはめられたそれを見たとき、動きは止まっていた。
黒字に金の線が入った、リストバンド。
「……っ!」
「お初にお目にかかります、三枝紫乃さん」
横向きに転がされている紫乃の顔の前にしゃがみこんだ別の男が、柔らかな声音で語りかけてくる。
焦げ茶色の髪を短めに切りそろえたその髪型。頬に浮かぶそばかす。中肉中背だが、雰囲気に隙がない。
何より、紫乃を見下ろす目に光る好奇心が、紫乃の記憶をくすぐった。
「……あなた、一花の……」
「覚えていましたか。ええ。おれは一花琥珀。一花家の三男ですよ」
一花家は、一ノ瀬家の流れを汲む『一の血統』に並ぶ家柄だ。分家という立場上魔術議会への直接の出席は許されていないが、『一』である事それ自体で、この国では上位にあたる。その三男。確か、中学生の時に大学入試で満点を取ったとか。良い逸話も悪い噂も耐えない、つかみどころのない人物。だが、グローリアの人間と一緒にいる時点で、限りなく黒だ。
「さて、実験を始めるためにはまだ少し時間が必要でしてね。不快だとは思いますが、今しばらくそこで転がっていてください」
そう言い残し琥珀の足が遠ざかっていく。何がなんだかわからないまま、紫乃は呆然とその後ろ姿を見ているしかなかった。
玄の前には、腰の辺りまでの門。それに刻まれているのは『魔術生物研究所』の文字。
大きく息を吸い、吐く。
小刻みに震える膝を押さえて敷地内に一歩踏み出そうとしたところで、ポケットの携帯が震えた。
一瞬、無視する事も考える。だが、一応確認した発信者の名前に、玄は渋々応答を選んだ。できるだけ早口で、語りかける。
「……どうやって番号を知ったんですか。山代先生」
「三枝家に問い合わせたんだ。事情と身分を明かしたら教えてくれたぞ。まあ、口外しないって条件付だったけどな」
「そうですか。それで、何かご用ですか?」
玄の態度で、状況を察したのだろう。宏緑もまた、早口に変わった。
「手短にいくぞ。今学校を通じて警察も動いてる。俺も黄衣も、今お前さんの目撃情報を頼りにそっちへ向かってる。けどな、まだ時間はかかりそうだ。お前さん、今どこだ?」
警察が動いた。だが、それは何の解決にもならない。
「第六区画、旧魔術生物研究所です」
「は!? なんでそんなところに!」
電話の向こうから、宏緑だけでなく黄衣の驚く声も聞こえてくる。同じ車のようだ。
「バンが停止したまま動きません。ミストレスもおそらく動いていませんから、ここが誘拐犯の根城で間違いないでしょう。内部に大勢の人間がいるのを感じます」
こんな説明の時間がもどかしい。一刻も早く、紫乃の元へ向かわなければならないというのに。
「……了解した。いいか、我々が到着するまでそこで待機していろ」
宏緑が運転に集中しだしたらしく、黄衣の声が電話口から響き出す。だが、その提案に首を縦に振る事はできない。
「それでは、間に合わない可能性があります」
「ダメだ。いいか、今回の誘拐、グローリアが噛んでいる。多人数がいるなら、いくら貴様でもリスクが大きすぎる。せめて私たちが到着するまでは待機していてくれ」
黄衣の声音にも、搾り出すような苦しさがある。
だが、玄はもう、胸中で荒れ狂う負の感情に押し潰されて気が狂いそうだった。
だから、肺の奥から搾り出すように、告げる。




