其の弐
ばたばたと、外が騒がしい。けたたましい足音に混じって、怒声のようなものも聞こえてくる。
図書室にあるまじき喧騒に、玄と同じく本を読んでいた数人や、生真面目にノートに何かを書き込んでいた上級生などが顔を上げた。
いつもの癖で紫乃の気配を確認する。普段なら、活性化した魔力と共に、玄の正面に位置する第一実技室に存在するはずなのだが――――。
――――ない。
魔力はおろか、気配すらない。そもそも、第一実技室に人の気配が存在していなかった。
嫌な予感に駆られて、本を乱暴に棚に戻す。極力音を立てないように廊下に飛び出したら、丁度向こうから走ってきた赤人にぶつかりかけた。
「……すいませ」
「神木! 丁度よかった!」
謝ろうとした言葉を遮られ、叫ばれる。その切羽詰った様子にただ事ではない雰囲気を感じ取り、玄は次を待った。
「三枝が、襲われてる!」
その言葉が終わらないうちに、玄は凄まじい速さで玄関を目指していた。
「このっ……離しなさい!」
二の腕を掴まれ、力の限り振り回す。だが、男女の差か、体格の差か、振り払う事もできない。
唐突に襲われ、虚を突かれたのが痛い。反応できない紫乃は簡単に間合いに入られ、ここから巻き返すのも用意ではなくなってしまっている。どうやら紫乃を捉える事が目的らしく、魔法戦が展開できないのもまた、紫乃が追い詰められている一つの要因。
それでも何とか体を捻り、自分が巻き込まれないよう角度を調整する暇もなく掌を向ける。
「『風弾呪!』」
だが掌で生まれた風の球は、腕を捻られる事であらぬ方向に飛んでいってしまう。
生憎とレイピアは校門でマネージャーに預けてしまった上、この炎天下体力を消耗していたところへの奇襲。校内にいて騒動が伝わるのが遅いのか、玄が来る兆しもない。
絶望的だ。
そんな、的確だからこそ残酷な戦況把握で生まれた隙を、見逃してくれるような相手ではない。
一際強く腕が引かれ、足が地面を離れる。精一杯もがいた反動を逆に利用され、ハンマー投げのように、男たちが乗っていたバンに放り込まれた。必死の抵抗も虚しく、中で待機していた男が手際よく紫乃の自由を封じていく。
「……ミストレス!」
不意に響いた声は、ドアが次々と閉まる音で掻き消される。
「神木ッ!」
叫んだ拍子に、開いた口へ布が押し当てられる。
それ以降、紫乃が抵抗する事はなかった。
車が発車するする寸前、くぐもった叫びが聞こえたような気がした。それは、玄の耳には紫乃が叫んだ助けを求める声のように聞こえて、胸の内が掻き乱されていく。
「すまない、神木。ぼくらがついていながら……」
「皆さんが無事で何よりです。警察と十塚様に連絡を」
早口にそれだけ言い終え、地面を全力で蹴る。左腰の刀と、それに重ねるように差した紫乃のレイピアが揺れる。長く伸びた髪がたなびくのに任せて、加速していく。すれ違う通行人が目を見開いてこちらを見ているが、そんなものは関係ない。
走りながら携帯を手早く操作し、もしもの時のためのGPSを起動する。表示された光点を確認し、ほっとした。どうやら、携帯の電源は落とされていないようだ。これで、紫乃を見失う可能性は限りなく低くなった。だが、まだ安心できない。
これ以上ないほど全力で疾駆していても、誘拐犯たちの乗る黒いバンのナンバープレートは徐々に遠ざかっていく。当然だ。常人を軽く凌駕するとはいえ、現在玄の身体能力は常人の魔力活性時に少し劣る程度なのだ。だが、こんな衆人環視の場で魔力を活性化させるのも躊躇われて、玄は徐々に小さくなっていくリアガラスに唇を噛んだ。
〈おい! 見失ってしまうではないか! 何をしているのだ!〉
頭の中で、伊邪那美の叫び声が響く。
(GPSがあるから、完全にロストする事はないよ。大丈夫)
〈それでも、時間はかかるであろう!〉
返せる言葉を、玄は持たない。黙って、唇を噛む歯に力を込めるだけだ。
〈その数秒のせいで、あの者が死んだらどうするのだ! 主は、また誰かを喪うのだぞ! また誰かを死なせるというのか!?〉
それは、引き金だった。玄の激情を暴発させるだけの力を持った、感情のトリガー。
――――また、誰かを死なせる。
その一言に、玄は横っ面を張り倒された気分だった。
(それだけは、嫌だ)
〈ならば、なんとかするのだ!〉
握り締めていた携帯を震える指で操作する。確実性を上げるために、足を止めた。
〈何故止まるのだ! 行ってしまうではないか!〉
子供のように喚く伊邪那美は無視して、暗号通信でメールを送る。宛先は、藍紫だ。
〈何をしておる! 急ぐのだ!〉
「……分かってる」
〈ならば何故足を止めておる! 今すぐに〉
(だから、力を貸して。伊邪那美)
身体の奥底で、ため息をつくような気配がした。
〈今更だの。好きなだけ使うがよい〉
同時に、体中にエネルギーが這い回るような不思議な感覚が広がる。今、玄の体表面には、手の甲から顎の辺り、そして足首の辺りまで黒い幾何学模様が広がっているはずだ。
それこそが、神の力を宿す者の証なのだから。
大きく息を吸う。閉じていた目を開けば奇異なものを見る目の通行人。既に黒のバンは影も形もない。
GPSで居場所を確認する。少し先の交差点を右に曲がり、今は直線で五百メートルほどのところを進んでいる。
大きく地を蹴れば、急激な加速感が体を包み込み、景色が斜め下へと流れた。
塀を足場に隣の民家の屋根に飛び乗る。通行人があげた驚きの声を置き去りに、隣の屋根へ。飛び石のように屋根を伝い、道路を辿るよりも早くバンの元へと駆ける。高低差は跳躍で埋め、流れていく色とりどりの地面も視界の外。
ただ、玄の中にあるのは一つだけ。
一刻でも早く、紫乃の元へ。




