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其の壱

 「……暑いわ」

家を出た時点で分かっていた事だが、快適だった電車を降り、西十区駅から十五分歩くとなれば、唸らずにはいられない。

 紫乃が汗と共に垂らした呟きに、玄は同じように汗を滲ませながら答えた。

「そうだね」

それでも微笑を崩さないのだから、紫乃は思わず玄の正気を疑ってしまう。もしくは、頬が引き攣っているのではないかと。

「……あなたのそれ、痙笑(けいしょう)じゃないわよね」

「けいしょう?」

「ええ。破傷風の症状よ。頬の筋肉が引き攣るから、その気はないのに笑っているように見えるの」

紫乃の言わんとする事を察したのだろう、玄は微笑みに苦味を含めた。

「違う違う。これは僕の意思だから」

「それならいいわ」

自分でも馬鹿な事を言っている自覚はあった。この非生産的な会話は、いわば暑さを紛らわせるための気休めだ。

 周囲に、人影は少ない。当たり前だ。時刻は現在午前八時だが、今日は八月も半ば。夏休みの真っ最中なのだから。

 それなのに何故紫乃と玄は何故炎天下に学校へと向かっているかと言えば、偏に部活のためだ。

「……そういえば、なんで全国的な戦闘術の大会は無いの?」

「……危険だからよ。学校単位程度のものなら、その生徒のレベルに合わせた試合もできるけれど、全国的なものになれば、みんな必死になって本気でしょう? とても、相手に合わせて力を加減するなんて芸当無理よ。まあ、大学生や一般の部のみの大会なら、いくつかあるけれど」

「……なるほどね。じゃあ、なんで夏休みも練習があるの?」

「体を鍛えるのに、一ヶ月も休んだら意味がないでしょう。そういう事よ。わたしは、どちらかと言えばあなたに教わりたいのだけど」

そんな会話を続けている間に、校門が見えてきていた。


 「それじゃあ、僕はいつも通り図書室にいるから」

「ええ。それじゃあ、終わったら迎えに行くわ」

いつも通り、一応の確認を終え、玄と別れる。

 紫乃と違い、玄は部活に入っていない。それに拘束されてしまえば突発的な事象に対応できなくなるため当然と言えば当然だが、紫乃に付き合って休日も登校し、何時間も図書室で時間を過ごしているのだから、少々の罪悪感も禁じえない。

 「おはよう、三枝」

背後から掛けられた声で、思考を切り替える。

「あら、五条君。おはよう」

浮かべなれた愛想笑いで振り向けば、そこにいたのは予想通り赤人。気温のせいか赤らめた顔に、にこやかな笑いを浮かべている。

「今日はアイツはいないんだな」

「神木なら図書室よ。第一実技室と図書室は、窓を使えば一直線らしいわ」

「そうか」

にべもなく答えれば、面白くなさそうな生返事。この反応もいつも通りだ。

「けど、暑いな。一実の空調が効いているといいのだが」

「先輩たちがいるだろうから、杞憂だと思うのだけど」

じりじりと焼け付くような日差しに炙られながら渡り廊下を渡り、男女別の更衣室で着替えを済ませる。学校指定のジャージに着替えて第一実技室へ入った紫乃を出迎えたのは、どんよりとした顔の上級生たちだった。

「……お、来ましたね主席。残念なお知らせです」

「その呼び方はやめてくださいと何度も……残念、ですか?」

その不穏な表情と、単語に思わず眉根が寄る。そんな紫乃の顔に、二年生は頷いた。

「そう、残念です。今日は山代先生が、なんだったかの理由で午前中いません。副顧問は出張。それを見越して十塚コーチを頼んでいたのですが」

そこで二年生は言葉を切り、大きくため息を吐いた。

「今日に限って、臨時の任務が入り、来られるのは十一時頃だそうです」

それは確かに残念な話だが、上級生たちは練習が時間通り始められないからと言ってこんなにがっかりするような人たちだっただろうか、と首を捻る。少々失礼だが、どちらかと言うときつい練習が三時間減る事を喜ぶ人たちだった気がするのだが。

「そこで、我が部長兼生徒会長である一ノ瀬蒼次様は考えました。この三時間、ただだらけるのではもったいないと。三分ほど考えた結果、彼は妙案を思いつきました」

嫌な予感がする。

「直接的な総戦の練習でなければ、代理で暇な先生を立てればいい事は知ってますよね?」

頷く。

「そこで、直接戦闘術担当の三田先生を代理で立て、今日は三時間、基礎筋力増強コースです」

冷や汗が、背筋を一筋伝っていく。『基礎筋力増強コース』といえば、蒼次と黄衣が二人で練り上げた、一口に言ってしまえば筋トレだ。走りこみから始まり、腕立て、腹筋、背筋……と、ただただ基礎トレーニングだけを繰り返していく、中学校のようなコース。高校生となり、辛く苦しいその時代を卒業した喜びに満ち溢れていた部員をどん底に叩き落した事で有名だ。

 そして、それは走り込み(・・・・)から始まる。

 紫乃がその意味を悟った事が伝わったのだろう。二年生は、げっそりとした笑顔で拳を振り上げた。

「さあ、それじゃあ、炎天下に急勾配を五キロ。行ってみよー……。もちろん魔力は活性化させたらダメですよ……」

 紫乃自身、愛想笑いを保てているか心配になってきた。

 

 「ああ、三枝さん。学校の外に出ますけど、ガーディアンに言わなくていいですか?」

背後から掛けられた声に、振り向く。そこにいたのは三年生。家が名家だとかで、数の血族内の事情にもある程度通じている人だ。

「ええ。一時間程度なら平気でしょう。それに、この炎天下に、何をするでもなくただ立たせるのは流石に酷いと思いますし」

「それもそうか。わかった。危険があればすぐにその場を離れてくださいよ」

「ええ。心得ています」

靴を履き替え、玄関から外に出る。途端に肌を焼く日差しに、早くも折れかける心を意地で立て直して、地を蹴った。

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