其の捌
「遅いわよ、神木」
どこで何をしていたのか知らないが、玄が合流したのは紫乃たちがゴール地点に到着した後だった。心配だったとは口が裂けても言わないが、一応格好だけ、を装ってゴール前で待機していた紫乃は、玄が到着するなり開口一番でそう咎めた。
そんな紫乃の様子に、玄は微笑んで頭を下げる。
いつも通りになったそんな風景にも、紫乃は違和感を感じる。
「……あなた、何があったのよ」
「ん? どういう事?」
「笑みが深いわね。目も笑ってる。何かあったのでしょう?」
言い当てた紫乃に、玄が思わず、と言った風に頬に手をやる。それが既に、正解の証明だった。
「それで、何があったの?」
「迷子になってた女の子を見つけて、公道まで送っただけだよ」
めらり。紫乃の中で何かが鎌首をもたげる。
「……へえ。女の子、ね」
「うん。十五歳か十六歳だと思う。赤い髪をサイドテールにしてて、三白眼だった」
「……それで、あなたはその子と会えて嬉しかったわけね」
苛立ちのままにぶつけた、何の根拠もない仮説だったはずなのに、あろう事か玄ははにかんだように頬を掻いた。
「そう、とも言えるかな。嫌ではなかったのは確かだけど」
その一言が、とどめだった。
「行くわよ。そろそろ集合がかかるわ」
言うが早いか踵を返す。もう、玄の表情を見ていられなかった。
「え、ちょ、あ、わかった」
しどろもどろに返事をし、後ろを付いてくるその足音にすら苛立って、歩幅を広げた。
隣の席で、ぐっすりと眠る紫乃に目をやる。その寝顔は安らかで、普段の不機嫌そうな無表情など見る影もない。もちろん、クラス内や茜に見せる、愛想笑いも。
――――お前はずっと笑ってるじゃん。いい事は起こったわけ?
先程出会った、赤い髪の少女の声が脳内で響く。その問いに、改めて答えた。
――――あったよ。一つだけ。
隣で眠る彼女が、玄の人生で唯一つの光。その真っ直ぐな心は、黒く捻じれた玄の行き先を照らしてくれる。
思えば、誰かの隣にこれほど抵抗なく並べたのは、姉である玄那以来かもしれない。それだけ、玄は紫乃に心を許しているのだろう。
玄にとって、紫乃は仕事の上で護らなければならない対象のはずだ。なのに、その対象を前に玄は、自分の意思で護りたいと思っている。
その事実に、動揺した。
もう二度と、誰かに触れる事は叶わないと思っていた。この赤く濡れた手で、刀以外を掴む事はないのだと。
けれど、紫乃は気にせずに触れてくる。藍紫も、紫苑も。宏緑も、黄衣も、茜も。
ぐるぐると渦巻く胸中を押さえるように、ポケットからイヤホンを取り出した。




