其の漆
心臓が強く血液を押し出す。激しくなっていく鼓動を悟られまいと、必死に平静を装った。
「……違うわけ?」
無邪気に尋ねてくる翡翠を前に、嘘をつき通す自信はなく。仕方なく、本心を少しだけ明かした。
「……そうだね。自分が嫌いってところは当たってるかな」
「そうか。ウチも、自分は嫌いだ。けど、他の人も同じくらい嫌いだね」
そう吐き捨てる翡翠の顔には、紛れも無い悔しさと嫌悪が浮かんでいる。
玄は、そこにいつかの自分を重ねている事に気づいて、
「……何があったのか、聞かない方がいいよね?」
思わず、好奇心に負けてしまった。
玄の言葉に隠された好奇心を察したわけではないだろうが、翡翠は顔を伏せた。
自分の失態を改めて悟り、言い繕おうとする玄を余所に、翡翠はボソリと呟く。
「……ウチは、両親が離婚して、良い家柄じゃなくなった途端に、今までの友達が、みんなウチの事馬鹿にし出して。今までのは全部、ウチの家柄が良かったからだったんかなって。そう思ったら、全部信じられなくなった。そんな相手を信じてた自分も、そんな扱いをしてきた周りも。全部嫌いになった」
一息に言い終えて、沈黙する。その、玄とはベクトルの違う苦しみを前に、何を言えばいいのかわからない。元々、その人の苦しみはその人だけのもので、他人がどうこう言えるものではないのだから。
昨日の紫乃のように、察しておいて『聞かない』と宣言するのが一番良いのだ。当人が話したくなるまでは。
「……お前になら、話してもいいと思っただけ。何かしてほしいわけじゃないから」
翡翠の押し殺すような言葉で、我に返る。
その代わり、いつも通りの微笑で顔を覗き込む。
「君が話してくれたんだから、僕が黙るわけにもいかないね」
右側頭部の尻尾を揺らして顔を上げた翡翠と目を合わせないように中空を見つめ、言葉を選ぶ。
「僕は、両親が二人ともいなくて。お姉ちゃんと二人で暮らしてたんだけど。十歳の誕生日の時に、祝ってくれてたお姉ちゃんと、友達十人。全員、乱入してきた人のせいで発狂してね。誰彼構わず攻撃して、物を壊すようになって。仕方なく、全員僕が殺した」
この話をするのは、十年前、何があったのか警察に説明して以来だ。こんなにスラスラと話せるのは、翡翠のおかげか、年月のおかげか。
前者であって欲しいと願った。年月で傷痕が擦り切れたなんて、考えたくもない。
「僕だけは、何故か大丈夫だったんだ。……だから、みんなを殺して、自分だけ生き残った僕が嫌いなんだ。憎んですらいる」
翡翠は何も言わない。黙って、玄を見ている。
「……ふうん。そうか。それで、まだ公道には出られないわけ?」
その反応が、ありがたい。下手に何かを言われるよりは、こうして流された方が何十倍もマシだった。
下手な事を言われたとき、激昂してしまいそうな気がして。
「うーん、もう少しかな」
二つ目の分かれ道を右。後、十分くらいだろうか。
「お前は、強いね」
ふと、口から零れ出たその言葉の内側に自分の感情を見て、翡翠は驚愕した。
自分がこんな風に感情を吐き出すのは、もう五年以上ぶりくらいになるだろう。しかもその感情は憧れ。これでは、何のためにこの力を身につけたのかさっぱりわからない。
「そんな事ないよ」
「いや、強い。お前は、ウチなんかよりずっと強い。ウチよりずっと辛いものを背負って、それでも笑ってるんだし。誇っていいから」
言い募る翡翠に、玄は微笑みに苦味を載せた。
「……僕は強くなんかないよ。弱いんだ、どうしようもなくね。だからこそ、笑ってるんだよ」
そう言った玄の変わらない微笑みが、翡翠の目には儚げに映る。そんな姿に、翡翠は胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。これが何なのか、翡翠は知らない。
恋なんて、温かくて楽しいものだと思っていた。切なくて苦しいなんて、聞いていない。
「……わかんない。弱いなら、なんで笑ってられるわけ? 笑えるのに弱いなら、笑えすらしないウチはどうなるのさ?」
立て続けの問いに、玄は少し考える様子を見せる。それを凝視した。
「僕なんかより、君の方がずっと強いと思うよ。君は、そんな目に遭っても自分を貫いてる。それは、僕には無い強さだから」
言っている意味がよく分からなかった。『自分を貫いている』だなんて、玄はそうではないと言うのだろうか。
「……そんなもの」
「そんなものだよ」
仕方なく、曖昧に流しておく。
返ったら橙也に聞いてみよう、と、面倒見のよい兄貴分を思い浮かべて決意した。
「……公道だね。ここから、たぶんあっち側に歩いていけば、バス停とかあると思うから。携帯の電波も、繋がりやすくなると思うよ」
圏外と記された自分の携帯を見ながら、玄は指を指した。
なにやら、あまり浮かない顔をしている翡翠に、教わった過去を思い出す。
「……もしも、何か嫌な事があっても。辛い事に巻き込まれても」
何故自分がこんな事を言っているのか、玄自身もあまり理解できていないというのに、言葉はすらすらと口から飛び出して行った。
「笑っていれば、きっといい事があるよ」
きょとんとした翡翠が、口を開く。
「お前は、あったわけ?」
「ん?」
「お前はずっと笑ってるじゃん。いい事は起こったわけ?」
そう聞き返されて、自分の記憶を振り返る。薄暗いものばかりの中に、一際光を放つもの。
「……そうだね。一つだけ、あるかな」
「そうか」
指先で顔を寄せろと指示され、疑問を感じながらもそれに従う。
不意に、唇に柔らかいものが押し当てられた。
硬直した玄を余所に、翡翠はさっき指差した方へさっさと歩いて行ってしまう。
と思えば、数メートル先で赤い尻尾を揺らして振り返った。
「それなら、信じてやる!」
わざとらしく、けれどそれでも初めて浮かんだ満面の笑みは、年相応に可愛らしかった。
ただ、当の玄には、それを見送る余裕など無かったのだが。




