其の陸
「茜、ここからどっちに向かうのかしら」
周囲にあるのは木立と土。既に宿舎は後方に見えなくなり、前方にあるのは二手に別れた獣道。
林間学校二日目。紫乃と玄は茜の班に混じって、散策の最中だった。
地図を持っているのは茜。その茜はと言えば、唸り声を上げながら地図をくるくると回している。
「茜、いいか? まずはコンパスで方角を確認して、地図を合わせる。その後、自分たちが辿ってきた道を見つけるんだ」
危険が無いように、各班一人ずつ付いている教師は、例によって宏緑。もっとも、全ての教師に共通して、最低限の手助けしかしない事になっているが。
「あ、あ、じゃあ、ここがこうだから、今ここだね! 次は左だよ!」
言われた通り、左に向かう。
その寸前、紫乃と宏緑を玄が止めた。
「……二人に話があります」
「どうしたのよ」
「おう、どうした」
向き直った紫乃たちの怪訝そうな表情に向かって、玄は言い放った。
「僕はこれから別行動します」
理由を尋ねてくる紫乃と宏緑に、『嫌な感じ』の話を簡潔にし終えた後、玄は二人を急かし、自分は分かれ道に残った。
昨日の朝、つまり三枝家を発ったときから感じていた、背筋がぞくりとするような『嫌な感じ』が、先程から今まで以上に強烈になってきている。他の事で頭が一杯だった昨日の夜も強烈だったらしいから、その時点から何かがあったのだろう。
気配を殺し、『嫌な感じ』の元を辿る。紫乃と宏緑は既に茜たちと合流しているだろう。紫乃の事は、宏緑に任せている限り問題ない。
昨日から居座っている雑念を消し、『嫌な感じ』を探る事だけに集中した。
視界の端を、何かがよぎった気がした。
咄嗟にそちらに顔を向ける。間違いない。『嫌な感じ』もまた、その先にある木のあたりから滲み出ていた。
「……姿を現してもらえるかな」
じっと、木を凝視する。その向こうに見える、人影のようなおぼろげな存在をそこに固定するように。
数十秒して、木の裏側から出てきたのは、暗い赤色の髪を右側頭部の高い位置で一纏めにした少女だった。年齢は玄と同程度だろうか。黄衣とは違う、正真正銘の三白眼だ。そのせいか、睨んでいるようにも見える。
刀の柄に右手を掛けて見せながら、玄は内心で驚いていた。少女にではない。少女が出てきた瞬間、『嫌な感じ』が消えたからだ。
本来ならば今すぐにでもあの木の影に飛び込んで周囲を捜索したいところだが、自分が要求した以上、この少女を無下にする事もできない。
「……君は、何者?」
少女の両手に装着された、大型の手甲鉤から視線を逸らさないように問う。
そんな緊迫した空気など意に介さないように、少女は言い放った。
「人に名前を聞く時は、まず自分からが礼儀じゃないわけ?」
あまりにもなその第一声に、思わず目を見開く。けれど、一応従っておいた。
「それは失礼しました。僕は神木玄」
「ウチは安東翡翠」
それ以上の情報開示は、お互いにしない。一度は弛緩した空気が、再び張り詰める。
口火を切ったのは、玄だった。
「君は、どうしてここに?」
「……道に迷ったの。お前、地図持ってないの?」
その時点で、玄は刀の柄から手を離した。翡翠と名乗った少女は魔力を活性化もさせていない。その上協力まで求めてきたのだ。突然斬りかかってくるような事は無いだろう。
玄の行動に合わせて、翡翠もまた手甲鉤を外して腰に戻した。一挙一動に合わせて、右側頭部の赤い尻尾が揺れる。
「君を信用しても大丈夫かな?」
「ウチはとりあえずお前を信用するけど」
「そっか。じゃあ僕もとりあえず君を信用する事にするよ」
とりあえずの意思疎通は完了した。それならば、やる事は決定している。
「それで、地図を持ってんの、持ってないの」
「地図は持ってないけど、この辺りの地形は大体わかるよ。一番近い公道まででいいなら、送るけど」
「そ。よろしく」
言うが早いか、翡翠は玄の隣に並ぶ。予想以上に近いその距離に、思わずその顔を凝視してしまった。
三白眼が、ぎろりとこっちを向く。
「何」
「いや、別に。それじゃあ、行こうか」
先程、紫乃たちが左に行った分かれ道を右に入る。ここから、何度か分かれ道を経て、大きめの通りに出られるはずだ。
隣を歩く黒い長髪を盗み見て、すぐに目を逸らす。心臓がうるさい。この鼓動の音が隣の少年に伝わっているとしたら、翡翠は今すぐに発狂できる自信があった。
『出て来い』と言われ、事を穏便に済ますために大人しく出て行ったはいいが、咄嗟の嘘がこんな事を引き起こすとは思わなかった。
感づかれないようにため息をつく。だが、それも無駄な事だった。
「……どうかしたの?」
何より柔らかな微笑で覗き込んでくるこの顔に、心拍数は乱される一方だ。無邪気に傾げられた首に、顔が燃えるように熱くなっていく。
「な、なんでもないし」
写真で見せられたときから、そうだ。対象判別用に渡された盗撮紛いの写真にも関わらず、それは翡翠の部屋の写真立てに大事に収められている。もっとも、裏側だが。
この感情が何なのかくらい、翡翠は知っている。齢も十六になれば、感情の名前くらいはわかる。
問題は、この少年が翡翠の敵である事なのだが。
「神木玄。お前のその目」
思わずそう告げてから、慌てて口を閉ざす。これを告げたところで、何になるわけでもないというのに。
「……何?」
それでも、この顔で尋ねられてしまえば、翡翠は強く反抗もできないのだ。
「……お前の目、ウチと似てるね」
言ってしまってから、後悔する。こんな事を言えば、自分の事を尋ねられるに決まっているのに。
「君と、僕が似てる?」
ただ、話題を打ち切るわけにもいかず。
「うん。……お前も、ウチも、人が嫌いだ。自分が厭わしくてしょうがない」
玄の微笑みが固まった。




