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其の伍

 「……神木、そろそろ時間よ」

「いや、その……ちょっと気分が悪くて……」

くぐもった声は、焦ったように震えている。

「そう。なら保健の先生を呼んでくるから。部屋で大人しくしてなさい。わたしは行って来るわ」

「ダメだよ! ミストレスは僕と離れたら危ないんだから」

「でも、あなたは気分が悪いのでしょう?」

扉の向こうから聞こえてくるのは、葛藤するような呻き声だけだ。

 現在時刻は午後八時。七月とは言え既に日は暮れ、月と星が台頭してきた時間だ。紫乃が立っている廊下も電灯が点き、人工的な明るさが照らしている。

 紫乃の前にあるのは、扉。木材の簡素な開き戸だ。そして、玄の部屋の扉。

 その部屋の主はといえば、鍵を開け、本当に体調でも悪いのではないかと疑うほど疲れた顔で出てきた。

「……本当に気分が悪いわけじゃないでしょうね」

「……できればそうだと言いたいよ」

その返答を聞く限り、そうではないらしい。つまりこれは、これから待ち受けているであろうイベントに対しての反応らしい。

「さあ、早く行かないと集合時間に遅れるわよ」

嬉々として腕を引く紫乃とは対照的な、沈んだ顔の玄。それは、これから始まるイベントによるものだ。

 曰く、肝試し。

 「そんなに怖がらなくても。実行委員が手作りの仕掛けや仮装で脅かしてくるだけのお遊びじゃない」

「確か、コースが決まってたよね……」

「ええ。宿舎裏手の雑木林を抜けて、その奥の使われていない炭焼き小屋に置いてある十字架を一つ持って帰ってくる。ただそれだけよ」

「こ、こんな夜道に……?」

「一応懐中電灯はもらえるみたいよ」

その情報で、やっと覚悟を決めたらしい。引っ張っていた手応えが無くなる。

 そこで、紫乃の中のいたずら心が炸裂した。

「でもまあ、お化けの仮装を仲間だと思って本物が寄ってくる、なんて話もあるけれど。実際、用意した仕掛け以外のお化けを見た人は後を絶たないらしいわよ」

掴んでいた腕を強く引っ張られ、思わず仰け反った。

 振り返れば、わなわなと震えながら唇を噛む玄。

「大丈夫よ。突発的に来られる分には平気なんでしょう?」

「それはまあ、一応訓練内容に入ってたから……この世のものじゃないもの相手にどれだけ通用するかわからないけど」

「平気よ」

もう一度腕を引き、無理やり集合場所まで連れ出した。

 

 「あ、来た来た。二人とも、残ったくじは十五番だよ。あたしたちの二つ後だね」

茜に出迎えられ、くじを渡される。もたもたしている間に、くじ引きは終わってしまっていたらしい。既に、道に入って行く二人組も見える。

「自由に二人組を組むって話だったけど、二人には関係ないしね」

しっかり繋がれた――――正確には紫乃が力の限り掴んで離さない――――腕を見て、茜が苦笑いする。

 玄の顔を見て、首を傾げた。

「……もしかして、神木君こういうの苦手?」

「……暗闇とか、お化けとかはちょっと……」

その答えに、茜がにやりと笑った。

「そっかー。実行委員、すごい力入ってるらしいから、頑張ってね」

それだけ言うと、自分のペアらしい女子生徒の方に行ってしまう。

 いつの間にか玄が離さない手に目を落とし、紫乃は小さく笑った。


 二倍近く重い体を引き摺って、人のいないところに腰を下ろす。右腕が自立稼動して腰を下ろし、体が軽くなった。

「お疲れー……って、神木君、そんなに?」

出発時点から紫乃の右腕を抱え込んで離さない玄の様子を目に留めた茜が、呆れたような声を上げた。

「……かなり苦手みたいね、こういうの」

「そっかー」

暗闇まで怖いとは、少々臆病過ぎないかとも思わないでもないが、怖がり方が尋常ではないものだから、あまり厳しい事も言えないでいた。

 ただただ、得体の知れない物を怖がっているだけではないような怖がり方だと感じてしまっているのも、原因かもしれないが。

「……まあ、少し休むといいよ。何かあれば先生とかいるしね。じゃあ」

遠くから、茜を呼ぶ声がしている。それに応え、茜はふらりと立ち去っていった。

 沈黙が降りる。周囲は感想や脅しなど、高校生らしい喧騒に包まれているというのに、紫乃と玄の周りだけが、墓地のような静けさに包まれている。

 「……あなたが何を怖がっているのかはわからないし、聞くつもりもないわ」

嘘だ。紫乃は今、それが知りたくてしょうがない。気を緩めれば、尋ねてしまいそうなほどに。

「けど、それがありもしない幻想だって事くらいは、わたしにだって言える」

「……そんな事ないよ」

やっと、玄が口を開く。それは、否定だった。

「みんなは、きっと僕の傍にいる。僕を恨んでる。僕を憎んでる」

思わず玄の顔を覗き込む。そして、気づいた。

 玄は紫乃など見てはいない。それどころか、現在すら見ているかどうか危うい。

 ただただ、自分の中の何かを見ていた。

「神木」

「きっと恨んでる。生き残った僕を」

「神木」

「絶対憎んでる。皆を殺した僕を」

「神木」

「そうだよ……僕は人殺しだ。みんなを殺したんだ。みんなを殺した僕だけが生き残ってる。だから恨んでる。憎んでる。だからそうやっていつも僕の前に現れて……」

「玄!」

思わず名前を叫び、肩を揺する。近くにいた数人がこちらを見たが、紫乃の姿を見とめてそっぽを向いた。好都合だ。

 紫乃があげた大声で、玄は顔を上げた。その目はテロのときに見た洞穴のような目で、思わず逸らしたくなる視線を意地で固定する。

「玄。ここには何もいないわ。いるのはわたしだけ。その誰かさんたちがあなたを恨んでようが、憎んでようが、ここにはいないわ」

気を抜けば、底なし沼のようなその瞳に吸い込まれてしまいそうになる。

 「……大丈夫。これは僕のものだから」

生気の戻らないその瞳で、玄は虚ろに呟く。

「誰にも渡さない。ミストレスにも譲らない。僕が背負うものだから」

支離滅裂だ。紫乃は別に何かを寄越せとは言っていない。そもそもそれが何かすら知らない。

 それなのに、玄は笑っていた。いつも通りの微笑で。

「……大丈夫。ごめん、ミストレス」

いつの間にか瞳にも光が戻っている。

 外見的にいつも通りなら、『聞くつもりは無い』と言った手前、紫乃はそれ以上何も言えない。

 仕方なく、頷いておいた。

「別に、大丈夫ならいいのよ」

さっさと顔を背け、立ち上がる。追って立ち上がった玄を引きつれて、踵を返した。

 先程から強烈に体を包み込んでいる、『嫌な感じ』から逃れるように。

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