其の肆
鬼の焦ったような叫びの通り。紫乃たちの前方百メートルほどのところで、地面が綺麗に消えていた。
「神木、高さはどのくらいかしら」
「さあ。たぶん、落ちても死なない程度だと思うよ」
「なら、問題ないわね」
百メートルを五秒ほどで駆け抜け、その勢いのまま跳躍。浮遊感と、風が顔を叩く勢いが心地いい。
慣性と重力が互いを打ち消しあい、全てが静止する。一瞬後、急速に地面が近づいてきた。
「ミストレス、捕まって」
風の音に混じって聞こえた指示は無視。だが伸ばされた手を振り払おうと振った手を掴まれ、強く引かれた。
「きゃっ!」
体勢を崩してもがく紫乃は、玄の器用な動きに呑まれて抱きかかえられ、二人で一つの塊となって落下していく事になる。
「離しなさい!」
「僭越ながらお断りさせていただきます」
わざとらしい敬語にますます苛立つ。
けれど、数秒後に訪れた衝撃を受けて、玄の判断に感謝せざるを得なくなってしまった。
ドスン、と地を揺るがすような音を立てて、紫乃を抱きかかえた玄が着地する。その衝撃で、思わず悲鳴を上げそうになった。
「……もう少し気をつけないと、本当に危ないよ」
呆れたような玄の腕から逃れる。流石にそれだけでは恩知らずすぎるかと、一言呟く。
「ありがと」
「それが仕事だから、気にしなくていいよ」
微笑を崩さない玄は放っておいて、今しがた落下してきた崖を見上げる。高さは三階建ての建物ほどだろうか。かなり高い。改めて、自分の愚かさが身に染みた。
「……上がれるかしら」
「無理だね」
即答され、思わずそちらを睨みつける。その視線を受けても、玄は微笑むだけだ。
「崖を触ってみなよ」
言われた通り、崖に手を当てる。ぼろぼろと表面が崩れた。
「手や足を掛けるだけの強度を持つ部分はなさそうだよ。高さからして、跳躍するのも無理。表面が崩れるから、走って上るのもたぶん不可能だよ」
立て続けに、唱えてもいない仮説を否定され、ぐうの音も出ないほど叩きのめされる。
「……落ちても死なないとは言え、怪我はするんだから。お転婆も自重しなよ?」
にっこり、とわざとらしく笑ってそんな事を言われても、言い返せないくらいに。
そんな、珍しく殊勝な紫乃に満足したのか、玄は表情を微笑みに戻して振り向いた。
「それじゃあ、登ろうか」
告げられた言葉の意味が判らず、思わず首を傾げる。そんな紫乃の様子など意に介した風も無く、玄は何かを見つめている。
「……登るって、今できないって言ったばかりじゃない」
ようやく我に返った紫乃の指摘で、玄も現実に戻ってくる。不機嫌そうな紫乃を見て、微笑みに苦味を載せ、玄は頬を掻いた。
「崖自体を使っては無理だから、ほら、それを使うんだよ」
そう言って指差した先には、地面から伸びる一本の木。だが、高さはそこまででもない。それに登ったところで、崖を登れるとは思えなかった。
「それを使ったところでどうなるのよ」
「あの一番上からなら、跳べるでしょ?」
崖の高さから木の高さを引いてみる。確かに、それくらいなら跳べそうだった。
「とりあえず、登ろう」
言うが早いかさっさと木に歩み寄っていく玄の長髪を追いかける。
間近から見上げたその木は、枝が張り出した登りやすそうな形状だった。だが、問題が一つ。
「……わたし、木登りなんてした事ないのだけど」
「じゃあ、抱えて登ってあげようか?」
わざとらしくそう尋ねられれば、顔を逸らすしかない。そんな無様な事は断じてお断りだ。
「問題ないわ。あなたが先行してくれれば、ね」
「わかった」
一言残して、玄が一番下の枝に手を掛ける。そのまま逆上がりの要領で登る。そして、紫乃を見下ろした。
それに続くべく、紫乃もまた同じ枝に手を伸ばす。
「……くっ」
届かなかった。思えば、玄がギリギリ届いた程度なのだから、それよりも十センチは低い紫乃が届くはずも無い。滑稽な姿を晒した自分に腹が立つ。
「手を貸そうか?」
そう言って伸ばされる手を払いのける。
瞬間、背後で『嫌な感じ』が弾けた。爆風のように、何とも言えない感覚が全身を包む。
はっとして振り向く。紫乃がそちらを見た時点で、感覚は消え去った。
「……今の」
「あなたも感じたのね。今の。さっきの『嫌な感じ』かしら?」
枝に伸ばした手を一度下ろして、腰のレイピアに手を伸ばす。先程からついて来ているのだ、紫乃か玄を監視している可能性が高い。
玄もまた、枝の上で臨戦態勢を取っている。それを警戒しているのか、それ以上『嫌な感じ』は感じられなかった。
けれど、玄は違うようで。
「……ミストレス、急いで登るよ。悪いけど、先に行ける?」
その緊迫した雰囲気に、紫乃は頷くしかない。
恐る恐る、次の枝に手を伸ばす。既に地面は遥か下。もう、頂上に届くというところだ。
好奇心に駆られて下を見る。刀を構えて一点を見据える玄の姿が遥か遠くにあり、小さく後悔した。
不意に、枝がなくなる。茂った葉を払いのけて上を見れば、既に枝は無く。いつの間にか一番上まで登りきったらしい。
「神木! 跳んでみるわ!」
小さく叫んで報告すれば、視線だけを上に向けた玄が頷いた。
崖の上に目をやる。高さだけ見れば、建物一階半ほど。だが、距離が一メートルほどある。単純計算だが、四メートル以上は跳ばなければならないのだ。
背筋を冷や汗が伝う。膝が笑いかけるが、辛うじて抑える。
「ミストレス! 大丈夫!?」
「へ、平気よ!」
返事が震えたのは、紫乃がそこまで気を配る余裕がないからだろうか。
大きく息を吸って、吐く。
「やぁっ!」
全力で枝を蹴る。加速感が体を包み、髪を後ろへとなびかせる。
ギリギリのところで、地面に足がついた。
「成功よ!」
「了解!」
刀を納めた玄がするすると木を登り、小さな気合と共に跳び上がって来る。一息ついたところで、玄が口を開いた。
「あの嫌な感じ、まだついてくるね」
言われて、神経を集中する。確かに、まだ微弱だが感じ取れるものがあった。
「……直接何かしてこない限りは平気よ」
立ち上がり、周囲を窺う。それらしき人影はない。
「戻りましょう」
いつの間にか立ち上がっていた玄が頷く。今しがたの名残をズボンで拭い、努めて平常通りに歩き出した。




