其の壱
七月上旬。平年よりも早く梅雨が明け、本格的に夏らしくなってきた時期。
玄はいつもより一時間以上早く三枝家を訪れていた。
「あら、今日は早いのね」
「おはようございます、奥様」
既に顔なじみとなった守衛に会釈して、三枝家の居間へ足を踏み入れる。最初に目が合ったのは、三枝家現当主藍紫の妻、紫苑だった。柔和な笑みで笑いかけてくる。
「他人行儀ね。以前のように呼んでくれて構わないのに」
「そういうわけにもいきませんから」
苦笑いで返し、きょろきょろと辺りを見回せば、意図を察した紫苑の声。
「紫乃はまだ寝てるわよ? 少し早すぎたかもね」
「いえ、時間通りですよ。今日から林間学校ですから、集合も一時間早いので」
きょとんと返せば、硬直した紫苑の顔。冷や汗が、若々しい頬を伝う。
「……そういえば、そうだったわね。道理で歯ブラシとか探してたはずよ……」
どうやら失念していたらしい。おっとりとしたその言動に含まれた焦りを汲み取り、微笑みの裏で頬を引き攣らせる。
「いけない、悪いけど、紫乃を起こしてきてもらえるかしら?」
「……わかりました」
控えめなノックで起こされた紫乃は時計を見て呻き、二度寝に入ろうとしたところで気配を察した玄が部屋に突入してきたため強制起床。その後、思い出した紫乃は大慌てで身支度整え、簡素な朝食を掻き込んで家を飛び出した。
何とか予定通りの電車に乗り込み、早朝故か比較的空いている車内で一息つく。自分の失態をごまかすように、恨み言を吐く。
「……どうして七時半なんて時間に集合なのよ」
「ここから長野だからね。お昼前に着くためには仕方ないんだよ」
「だからって、六時半前に起きなきゃならないのよ? わたしが低血圧なの知ってるでしょう?」
理不尽極まりない言い草にも、玄は笑うだけだ。
「知ってるけど、僕が決めたわけじゃないからね」
そう言われてしまえば、紫乃に反論できるはずもない。気まずさに顔をしかめ、窓の外に目をやる。流れていく景色は、普段と変わらなかった。
学校に到着し、校門からずらりと並んだバスの横を通る。今日は教室に入らず、グラウンドで朝のホームルームの予定だった。七時二十五分現在、八割方の生徒が形だけ整列し、周囲と会話に花を咲かせている。
「わたしはこっちね」
一番左端の列に篠田と尾上の姿を見つけ、そちら側へ動こうとした紫乃は、腕を引かれて足を止めた。
「何よ」
「まだ寝ぼけてるの?」
不機嫌に問えば、無邪気な微笑で失礼極まりない言葉が返ってくる。あんまりな発言に、紫乃は硬直した。
「ど、どういう意味よ」
「ミストレスと僕を離すわけにはいかないから、二人で特別班。引率教師の中で一番戦闘能力に長けた山代先生が担当する九組と一緒に行動する。説明されたでしょ?」
記憶を探る。そういえば、一番最初に告げられた気がする。特別扱いは珍しくないが、だからと言って慣れるわけでもない。内心でため息をついた記憶がある。
「……そうだったわね」
「だから、こっち」
自分が寝ぼけているかもしれない可能性が高い事実に呆然とする紫乃は、普段ならありえない体勢のまま九組の列の最後尾に玄と並んだ。つまり、手を引かれたまま。
「おう、来たな、お二人さん。特別扱いは居心地が悪いと思うが、我慢してくれ」
「僕は別に。ミストレスがどう思うかは知りませんが」
「特別扱いは慣れてるわ。中学の修学旅行なんて、常に先生と護衛が複数人だったもの」
思い出したくもない。あれでは逆に、ここに要人がいると言っているものだ。要人というほどの人間でもないが。
その反省を活かしたわけでもなかろうが、それに比べればいい方だ。
微妙な表情を浮かべる宏緑は、何かもごもごと言い残すと去っていった。
「紫乃ちゃん、神木君、おはよう」
次いで近寄ってきたのは、茜。暗めの茶髪を揺らすその目元には、濃い隈が健在だ。
「おはよう、茜」
「おはよう、桜井さん」
「散策は一緒にやるらしいから、その時はよろしくね」
そういえばそんな事もやるんだった、と記憶から引っ張り出す。『散策』と言っているものの、周辺は急勾配の山や崖が多く、一種の訓練だと注意されたのも一緒に出てきて、げんなりとした。
魔術や剣術の練習は嫌いではないが、何もこんなときにまでやらなくてもいいのではと。
『七時三十分です。整列してください』
拡声器から響く学年主任の声で、周囲が一層騒がしくなる。それでも並び直す辺りは、高校生と言ったところか。
話し始めた学年主任の言葉を聞き流しながら、その向こうをぼんやりと見やった。




