其の拾玖
玄の体から噴き出した闇色の魔力が、唸りをあげて紫乃や宏緑の周りを渦巻く。それは先程の靄のように不規則な動きではなく、明確な意思を持っているように感じられた。
そしてその直感が正しかった事を知る。
「……気は済んだ? 遊ぶために出したわけじゃないんだけど」
〈まあそうかっかするでない。外に出るのは久し振りでの、てんしょんまっくすなのだ〉
頭に直接響くような、アルトの女声。黄衣や宏緑も同じ感覚に陥ったらしく、しきりに辺りを見回している。
その様子を、声は笑った。
〈別に得体の知れないものではない〉
渦巻いていた魔力が、玄の前で収束していく。それは見る見るうちにまとまっていき、一人の人間を形作った。
まず目に付くのが、恐ろしく長い髪だ。紫乃は肩の辺りまで、黄衣は肩甲骨の辺り、この中で一番長い玄でさえ腰、正確には背中の中ほどまでの長さだが、その人物は更に長い。膝の辺りまであるだろうか。普通の黒髪とも、黄衣の艶やかな黒とも違う、言うなれば玄の魔力のような、吸い込まれそうな黒だ。
〈初めましてだの、孫たちよ〉
紫乃たちに向かって屈託ない笑みで笑いかけたその人物は、全体的に小柄だった。露になった足首も手首も、折れそうなほどに細い。身長とて百五十五に届くかどうかだろう。
そして、ぶかぶかな、特に袂が不釣合いに大きな黒い和服を着ていた。よくよく見れば、左前だ。
〈我は伊邪那美。万物の母神にして死を司る黄泉の支配者。とはいえ今は玄の魂と同化しておる故、ただの魔力の塊でしかないのだがの〉
特に威張るところでもないだろうに、伊邪那美と名乗った少女は薄い胸を張った。
困惑する三人の反応が理解できないというように笑顔のまま首を傾げた伊邪那美は、紫乃に改めて目を留め、その目を見開いた。
〈……そなた、よい感じだの〉
唐突に告げられたその言葉の意味を理解しかね、硬直する紫乃へ、伊邪那美は地面を滑るように向かってくる。その行動の意味を判断できず、ただぼんやりとそれを見ているだけだった紫乃が我に返ったとき、伊邪那美の幼さを残した笑顔がすぐ傍にあった。
「……え?」
紫乃の顎の下に。
抱きつかれたのだとどうにか理解できたのは、偏に玄が放った一言のおかげだった。
「ミストレスに抱きつくなんて、どうかしたの?」
〈この者、よい感じがするのでの〉
「それは、僕みたいなもの?」
首を傾げた玄に、伊邪那美は紫乃に抱きついたままゆるゆると首を振る。
〈そなたは自分の家のような感じだがの、この者は泣きそうになる懐かしさがあるのだ〉
「ふーん」
「なあ、いい加減この子が何なのか、つまりどういう事なのか教えてくれないか?」
まったく要領を得ない会話に硬直した紫乃と頭を抱えた黄衣。その二人の心情を代弁するかのように、宏緑が声を上げた。
その言葉でようやく思い出したのか、玄は微笑みに少しだけはにかむような色を足した。
「ああ、すいません。……彼女は、名乗った通り伊邪那美です。日本神話に記された万物の母神であり、死を司る黄泉の主神なのも言った通り。そして」
そこで、玄は少しだけ悲しそうに目を伏せた。けれどそれも一瞬の事。すぐにいつも通りを取り戻した玄が、言葉を継ぐ。
「『神降ろし』によって僕に宿った、僕の魔力です」
沈黙が降りる。ようやく紫乃から離れた伊邪那美が、再び首を傾げた。
その突拍子もない告白を一番最初に飲み込んだのは、紫乃だった。
「……それが、不思議な魔術を使う理由ね」
「うん。神の魔力は特殊だから、専用魔術以外使えないんだ」
玄の特殊性を目の当たりにしていたことが大きいだろう。今更どんなものが増えようが、紫乃にはあまり大きな問題とは思えなかった。
「説明ありがとう。『神降ろし』の成功例、だからあなたは特殊なのね」
「そう思ってくれて構わないよ。『神憑き』は少なからず宿した神の影響を受けるから、魔力非活性時でも身体能力は少し向上するし」
玄の化け物染みた身体能力も、これで説明がついたわけだ。それだけで、紫乃の疑問は解消されていた。
「『神降ろし』の成功例……『神憑き』か。わかった。この件に関しては、私は何も見聞きしていない。それでいいのだろう?」
黄衣もまた、別の視点からこの話を聴いていた。黄衣なりの結論を下し、玄の答えを窺っている。
「ええ。そうしてくれれば幸いです。『神降ろし』も『神憑き』も、経験則でしかわかっていないので、今はまだ公表は避けたい。それに、僕は『三枝の秘密兵器』ですから」
最後の一文に、黄衣は小さく笑った。
「それは、秘密にしなければならんな。『数の血族』の戦力増強は、表沙汰にならない限り相互不干渉なのが不文律だ」
その言葉に、玄は頷き、紫乃は表情を消す。宏緑は露骨に顔をしかめていた。
「それじゃあ、黄衣、後は任せていいか?」
「ああ。後処理部隊もそろそろ到着する頃だろう。大事になる前に去るといい」
「そうさせてもらうぞ。紫乃、玄、今日は解散だ。駅まで送ろう」
いつの間にか伊邪那美の姿はなく、気配も綺麗に消え去っている。どうやら、玄の中に戻ったようだ。
宏緑に先導されるまま、廃工場の敷地を出て駅までの道を辿る。
疲労と気分の沈みからくる沈黙を破ったのは、先頭を歩いていた宏緑だった。
「なあ、玄」
「なんでしょう」
「お前さんの、剣のことだが」
唐突にそんな話を始めた宏緑に、紫乃は思わず怪訝を顔に出していた。
玄が腰に帯びている打刀は、特筆すべき事項は何もない普通の刀だ。先程の鎌は魔力によるものであろうし、そもそも『剣』と呼ぶべきものではない。
つまり、宏緑が言いたい事が予測できないのだ。それは、ありもしない不安を呼び寄せる原因になる。
宏緑に限ってありえないとは思うが、玄が、謂れのない誹謗中傷に晒されるような事があれば、紫乃は身を挺してでも庇うつもりだった。玄のためや喧嘩防止のためではない。ただ、紫乃はその痛みを知っている。言葉の刃に直接体をえぐられるかのような痛み。
それは、間違っても耐えられるものではない。ましてや、曲がりなりにも信用している人間にぶつけられるものとなれば。だから、それに玄が晒されるのは嫌だった。
「ガーディアンが振るうものじゃないな。お前さんの剣は、『殺すための剣』だ」
けれど、幾通りも準備していた反論の全てが適用されないその言葉に、紫乃は愕然とした。




