其の拾陸
政権移譲から十年程掛けて行われた区画整理以降、めっきりその姿を消した廃工場。その前方、通りを一本挟んだ向かいの路地で、紫乃は息を殺していた。隣に立つ玄は普段通り平然と微笑んでいるが、紫乃はそこまでの胆力を発揮できそうにはない。
なにしろ、これから国際的なテロ組織のアジトに踏み込もうと言うのだから。
『……一分前だぞ』
渡された無線式イヤホンマイクが届ける宏緑の声が、作戦開始までのカウントダウンを始める。その重圧に押しつぶされないように、真っ直ぐ前を見やった。
髪を左耳に掛け、大きく息を吐く。
「ミストレス、大丈夫?」
「馬鹿にしないで。平気よ」
俯く紫乃の顔を覗き込んだ玄の中性的な顔から顔ごと逸らし、問いかけを弾き飛ばす。その様子に呆れたような笑いを漏らしながら、玄が言葉を継ぐ。
「カウントダウンの後、魔法で正面扉をできるだけ派手に壊して」
「分かったわ。『焔弾呪』でいいかしら」
「うん。威力強めでね」
そんな打ち合わせが終わった直後。
『作戦開始だ。……クールに行こうぜ』
右耳のイヤホンマイクから、宏緑の激励が届いた。
即座に黒髪を翻した玄に続いて、路地から身を躍らせる。
「行くわよ!」
「了解!」
一瞬の意思疎通を終え、目の前に迫った巨大かつ重厚な金属の扉へと右掌を向ける。
「『焔弾呪』!」
右掌に、体中の血液を集中させるイメージ。普段何気なく作る火球よりも、大きく。『焔弾呪』の許容量ギリギリまで魔力を注ぎ込む。
ハンドボール大からバスケットボールへ、そしてバランスボール大と肥大した火球を金属扉と射出する。尾を引いて飛び出した火球は火の粉を振り撒き、金属の壁に激突した。
瞬間、視界が赤く染まった。反射的に腕を顔の前にかざし、叩きつける熱風と閃光から顔を守る。肌で感じる破壊の衝撃が、体中の皮膚に突き刺さるような罪悪感となって駆け巡る。それを無理やり呑み込んで、腕を強く振り払った。
「どうかしら?」
「十分すぎるほどだよ。これで、半分はこっちに来るだろうし。先生たちが死ぬ可能性は、少しでも下げたいから」
尋ねてもいない理由まで教えてくれた玄は、自分たちが死ぬ可能性を微塵にも考慮していないようだった。けれどそれが傲慢や思い上がりの類ではない事は、横顔を見れば分かる。変わらぬ微笑の奥の瞳は、まったく笑っていないのだ。
「突っ込むよ。援護お願い」
「え、ええ」
ぼんやりと横顔を見ていた紫乃に指示した玄が、その言葉通り駆け出す。慌ててその後を追いながら、レイピアを抜いた。先に抜いていた玄の打刀と並び、二振りが陽光を受けて煌く。
焼け爛れた壁に背を付け、左右から中を覗き込む、金属と木材の破片が散乱したホールに人影はない。けれど、その向こう、通路の奥から複数人の足音が響いてきていた。
「三よ」
「了解」
足音の違いを聞き分け、人数を報告する。
自分が伝えた情報の真偽を確認するために、目だけを壁から出した紫乃のすぐ横を、黄色に輝く雷の槍が突き抜けていった。髪が焦げたのか、嫌な臭いが生まれる。
焦って体を引っ込めた紫乃とほとんど同時、爆発によって跡形もなくなった扉の跡地を、もう二本が飛び去っていく。それは見守る紫乃の視線の先、二十メートルほどの地点で効力を無くして小爆発を起こし、消えた。
紫乃の背筋を、寒気が伝う。あの射程距離から鑑みるに、直撃すれば一たまりもなかったに違いない。改めて、現状相対しているのがテロリストなのだと痛感する。
「『風装呪』」
気合を入れ直す意味も込めて武装呪を展開する。右手のレイピアが少し軽くなり、緑色の光を纏う。それを横目に、玄を見やった。
扉跡の反対側で、同じように壁に背をつけている玄は、慎重に内部を覗いては引っ込む動作を繰り返している。何とかして隙を見つけたいようだ。それはそうだろう、いくら玄とはいっても、魔術使三人を相手に真っ向から突っ込んでは危険だ。紫乃の援護とて、防御呪文は自身の攻撃をも無効化してしまう。一瞬で三人を相手にするこの状況では、あまり褒められた事ではないだろう。
一瞬の隙。玄がテロリストたちに接近する時間さえ稼げれば、こっちのものだ。
考えろ。紫乃は内心で呟く。この不必要なほど高性能な頭で。何か解決策を、打開策を。考えろ考えろ考えろ――――。
「神木」
イヤホンマイクを使って、反対側の玄に語りかける。その声に視線だけで反応した玄は、紫乃の顔を見て、頷いた。
「三秒後、目を瞑りなさい。あなたなら、目を瞑ってても彼らに接近できるでしょう?」
『これだけの魔力活性化状態なら、できると思うけど。何する気なの?』
「カウントの後、『光弾呪』を撃つわ。ちょうど、彼らの正面で爆発するように」
それだけで紫乃の作戦全てを察したのだろう。頷きで同意を示した玄が、刀を握りしめる。レイピアを一度鞘に収め、左手を突き出す。それは、三本の指が立てられたカウントのジェスチャー。
三。右掌を広げ、一度テロリストたちの位置を確認する。
二。
「光弾呪」
右掌に、まばゆい光を放つ弾が現れる。
一。
「今!」
玄が扉跡から飛び出すよりも一瞬早く、紫乃の右手から光の弾が離れる。白い光の尾を引くそれは一直線にテロリスト三人の下へと飛び出し、その眼前で爆発した。
それを予期し、事前に目を閉じていた紫乃ですら反射的に右手を掲げて目を守ってしまうほどの閃光。その中に溶け込んだ黒い長髪が再び現れたとき、テロリストたちの息は無かった。
「まずは三人。ありがとう、ミストレス」
「別にお礼なんていらないわ。ほら、次にいくわよ」
気恥ずかしさをごまかすように素っ気無い言葉を叩きつけ、前方の廊下へと早足に移動する。警戒を怠らず、左右の壁に同じように張り付いた紫乃たちを狙って、様々な遠距離攻撃魔法が迸った。いつの間にか、更に数人に接近されていたらしい。
腹の底に響くような轟音が鳴り響くたびに工場の床が燃え、濡れ、乾いていく。折り重なるように倒れているテロリストだった肉塊が、吹き飛ばされて工場の外に飛び出した。正確な数はわからないが、五人は下らないだろう。
「どうするのよ、これ」
『彼らは軍の、少なくとも小隊規模が来たと勘違いしてるだろうからね、それ相応の対応をしているだけだよ。中に進入される前に撃退してしまいたいだろうし』
「それはわかるわ。わたしが聞いてるのは、どう対応するかよ」
濃密な魔法の川の向こう側で、玄が少し考え込む様子を見せる。期待と不安が混ざり合った胸中を抱えて拳を握る紫乃が見つめる中、唐突にため息をついた。その意味を計りかねる紫乃に、呟く。
『……まさか、こんなに早くに使う事になるとはね。さすがに、テロリストを舐めてたかな。今の僕らじゃ勝てない事はわかってたけど……まさかここまでとはね』
先程までとは矛盾した弱音に眉根を寄せ、それほどまでに絶望的だと言えるこの状況を打開する方法を考える。考える。先程の閃光弾もどきのように、何か一瞬の隙を。玄が突っ込む隙を作り、魔法攻撃への対応をするのが、今の紫乃の役割なのだから。
必死に頭を働かせる紫乃の視界の端を、何かが漂った。それは、紫乃のものではない余剰魔力。おそらく、テロリスト側は余剰魔力の制御に力を割く余裕など無いのだろう。
けれど紫乃がそれを注視したのは、それを好機と見たからではない。その色が、濁っていたからだ。
一般的に、魔力の保有量は魔法を使える量を、濃度は魔法の威力を左右すると言われている。余剰魔力の色が濁っているのは、濃度が低い証。
更に言えば、どちらかのみが突出した人間はほとんどいない。大体の人間が、どちらも同じようなレベルで揃っている。
ならば。まだ手はある。
「神木、聞きなさい」
こんなときまで高圧的な自分には苦笑するしかないが。
『どうかしたの?』
「手ならあるわ」
それでも、これを伝えないよりはマシだろう。そうやって、自身を納得させる。
イヤホンマイク、そして色取り取りの魔法の向こうで、玄が息を呑んだ気配がした。
「テロリストたちの魔力量はそんなに多くないわ。なのに、五人でここまでの魔法を連発してる」
玄が、先程呑んだ息を吐いた。
『なるほどね。時間的に見ても、そろそろ来るかな』
「ええ。その瞬間に突っ込みなさい」
『了解。全員斬り捨てるよ』
何が来るのか。それは、普段魔法を使って戦う人間が恐れる最大の危機。魔法戦においては、即座に死へと繋がる最悪の失敗。
ここまで延々と続いてきた大量の魔法が、不意に途切れた。二つ、三つほどが時折飛んで来る程度まで、密度が下がる。
魔力切れだ。体内の魔力が生命維持に支障をきたす直前まで減少し、魔法を作り出せなくなったのだ。加えて体力、精神力とも直結する魔力が枯渇した事で、テロリストたちは今、立っている事すらままならないだろう。
そんな状態で、玄の攻撃から逃れられるはずがない。どさどさと水っぽい衝撃音が立て続けに響いた後、玄の声がした。
『排除完了。安全だよ』




