其の拾
「ミストレス、時間だよ」
「……わかってるわよ」
未だ開ききらない目を乱暴にこすり、朝食の途中から食堂の入口に立っていた玄を従えて玄関へ向かう。低血圧なせいか、紫乃は朝に弱い。今も、まだ目が覚めているとはあまり言えなかった。先日、入学式の日に紫乃があれだけ早起きできたのは、ひとえに周囲への不満に他ならない。それに類するものがない現在、紫乃は普段通りにぼんやりしたまま家を出た。
そして、そのまま一日が過ぎるものだと思っていた。
急勾配の坂を上り、校門が見えてくる頃。左側を歩いていた玄が、纏う雰囲気を変えた。浮かべている微笑と同じ柔らかい雰囲気が、抜き身の刀のように攻撃的に。
「……どうかしたの」
思わず、声を潜めて問いかける。けれど、玄はただ小さく首を振っただけだった。口の動きで、『そのまま』と告げてくる。うずく好奇心を抑えて、前を向く。
校門を潜り、昇降口で靴を履き替える。
「それじゃあ、また放課後」
「待ちなさい」
そのままさっさと去ろうとする玄の襟首を捕まえる勢いで、制止する。ばつの悪い笑顔で振り向いた玄に、先ほどの問いをもう一度投げかけた。幸い、まだホームルームまで時間はある。
「さっき、何があったのよ」
詰め寄る紫乃の剣幕に、逃げる事は不可能だと悟ったのだろう、玄は諦めたように口を開いた。
「三人、いや四人かな。具体的な人数はわからないけど。数人、通学路を見張ってた。たぶん、敷地周辺に万遍なく、もう少し人数はいるだろうね。全員、殺気を隠そうともしてなかったから、それを生業にしている奴らじゃない。ミストレスが気づかなかったなら、隠密行動自体はしっかりしてたみたいだけど……」
「中々、面白い話をしているな」
不意に背後から飛んできた声に、驚いて振り向く。玄も気づいていなかったのか、愕然としている。
「おい、黄衣、新入生脅かすのはやめておけよ」
「何? 新入生だったのか……それはすまないことをしたな」
「いえ、気づかなかった僕のせいですから」
振り返った先で宏緑に注意されているのは、背筋を毅然と伸ばし、黒髪をハーフアップにした女性だった。鼻筋の通った、怜悧な印象の美人。その顔に、紫乃は見覚えがあった。
「十塚様でしょうか?」
「ん? いかにも、私は十塚黄衣だが。……ああ、三枝の」
「はい。三枝の長女、紫乃です」
十塚は、『数の血族』のうち、『十の血統』を統べる本家だ。黄衣はその次女に当たる。高校卒業後、さっさと軍に入隊した事で有名だ。
「ならば、私もしっかり名乗らなければならないだろうな。日本魔術帝国領域防衛軍首都圏防衛団、第二魔術大隊所属、十塚黄衣少佐であります。以後、お見知りおきを」
「三枝家の長女、三枝紫乃と申します。以降、よろしくお願いいたします」
そんな、数の血族特有の堅苦しい挨拶を交わす紫乃たち二人の横で、玄は宏緑に頭を下げた。
「おはようございます、山代先生」
「おう、おはようさん。それで、何の話をしてたんだ?」
少し悩んだ様子を見せた玄だったが、紫乃の視線に観念したのか、話し出した。
「具体的な人数は不明ですが、この高校の敷地周辺を見張っている気配があります。殺気を隠そうともしていませんが、隠密行動はまともです。数人単位での行動を行っていると思われます。現状、動いている素振りはありませんが、警戒と調査をお勧めしますよ」
その報告にいち早く反応したのは、黄衣だった。感心したように息を吐き、にやりと笑う。
「我が軍に是非とも欲しい人材だな。高校卒業後の進路は決まっているか? 決まっていないなら士官学校をお勧めする。言ってくれれば、口添えしよう」
「十塚様。神木はわたしのガーディアンです。口説くのは自重くださいませ」
「ふむ、随分とご執心だな。貴様なら、『どうぞご自由に』くらい言いそうだが」
「いや、それは……わたしではなく、お父様が決めたことですから」
「それはそれは、尊重しないとならないな」
火花を散らす二人から話題を逸らすように、宏緑が口を開く。
「不穏な空気は確かにあったが……魔力の活性化はしてないんだろ?」
「ええ。そこは徹底しているようです」
「なのに、なんでわかる?」
「向けられる殺気くらいは判断できますよ。これでも、ミストレスのガーディアンなので」
黄衣が目を見開く。その横で、宏緑は苦笑した。
「俺はお前さんを見くびっていたみたいだな。わかった、こっちでも少し話をしてみよう」
「私の方も、その辺りの動きは調べてみよう。そいつらは、隠密行動はまともなんだな?」
「ええ。ただ、どこか脆いというか……殺気は隠していませんから、いびつです」
満足したように頷き、黄衣が去っていく。
「お前さんたち、お手柄かもしれないな」
玄と紫乃の頭をくしゃくしゃと撫で、宏緑も同じ方向に歩き去っていった。
「そろそろ時間だ、遅刻するなよ?」
その言葉に、腕時計を確認する。確かに、余裕があったはずの時間は、すでにギリギリだった。
「それじゃあ、また放課後」
「ええ。今日は教室までお願いするわ」
「了解」
校舎が違うため、玄の方が教室は遠い。そのためだろう、腰までの黒髪をなびかせて走り去る玄を見送って、紫乃も踵を返す。風通しの良くなった左側に、一抹の寂しさを感じている自分を振り払うように、階段を駆け上った。




