其の玖
駅から朝とは違う道を通り、紫乃の家へと帰り着く。入学式とHRのみとはいえ、その後の一悶着のせいで紫乃は少し疲れていた。
そんな状態だからか、門が見えたとき、無意識にため息を吐いていた。それを自覚して慌てて口を押さえるが、幸い玄は別の事に気を取られて聞いていなかったらしい。じっと、門の下の方を見つめている。
「神木、どうかしたの」
「ああ、いや。あの猫、僕が飼ってるのに似てるなって」
指で指し示した先には真っ黒い猫。首輪がついているかどうかはここから判別できないが、現在の日本に野良猫は多くない。政権移譲後の新行政区画制度施行による開発で追い払われて以降、しっかりとした管理が義務付けられたためだ。
「脱走されるような覚えはあるの? というか、あなた猫なんて飼ってたの」
「うん。小さい頃から。今の猫は三代目かな。二歳の黒猫。赤い首輪で、鈴がついてるんだけど。脱走は、そもそも家と外の出入りは自由だし」
扉の下に動物用の扉がついているアパートなのだ、と玄が説明する。その間に、黒猫は紫乃たちの方へ近づいてきていた。
一声、猫が鳴く。足元までやってきていた猫は、首元の鈴を小さく鳴らした。
「ああ、やっぱりグリムだったんだ」
嬉しそうに呟いた玄が、グリムを抱き上げる。脇を抱かれて無防備に垂れ下がったグリムは、玄の顔を見るなりもう一度鳴いた。それに嬉しそうな響きを感じたのは、紫乃の錯覚かも知れないが。
「ミストレス、ミストレスの家の人で、猫がダメな人いる?」
グリムを抱きかかえたまま、玄が紫乃へ問いかける。けれど、グリムをぼんやりと見つめていた紫乃には、届いていなかった。
「ミストレス?」
もう一度、今度は少し語気を強める。我に返った紫乃は、慌てて猫から玄へと視線を移した。頬が少し赤くなっているだろうか、顔が熱い。
「あ、ああ。ええ。大丈夫だったはずよ」
「そっか。じゃあ、悪いけど、グリムも連れて行くよ」
グリムを地面に下ろし、紫乃が動くのを待っている。けれど、紫乃はまたしても足元の黒猫に意識を奪われていた。
「……触りたい?」
内心を見透かす言葉に、慌てて顔を上げる。そして、自分の行動を恥じて顔を背けた。
「別にそういうわけじゃないわよ……ただ、わたしは動物を飼った事がないだけ」
「触ってもいいし、人懐っこいから撫で回して大丈夫だけど、まずは家についてからだよ」
「わ、わかってるわよ!」
現在が門の少し前で立ち止まっている状態であることを再認識し、ますます顔が赤くなっていく。それを見られないよう、大股で門へ向かう。
身長差からくる歩幅の差か、すぐに追いつかれた事に落胆しつつ、門を開けた。
「お帰りなさいませ」
「ええ、ただいま」
玄関に入ったところで出くわした使用人に素っ気無く返し、靴を脱ぐ。
「それじゃあ、僕はここで」
「待ちなさい」
足元にグリムを引き連れたまま踵を返した玄を呼び止める。
「どうかしましたか?」
「上がっていきなさい」
「しかし」
「いいから」
無理やり腕を引き、自分の方に引き寄せる。想像以上に顔が近づき、一見しただけでは男に見えない玄の顔を間近で見ることになる。慌てて揺れた長髪から顔を背け、一歩下がる。足元の猫が敵意を見せた気配がしたが、玄の一瞥で納まった。
「無事に帰宅した以上、僕の仕事は終了したはずでは?」
きょとんとする玄に、苛立つ。約束を反故にするつもりか、と憤る内心を抑えて、努めて冷静に、無感情に告げる。
「……猫、触らせてくれるんでしょう?」
数瞬、玄が瞬きを繰り返す。そして、吹き出した。
「そういえば、そうだったね。ごめんごめん」
「何を笑ってるのよ」
「ううん、ミストレスは時々年相応だなって」
「あなたね、それどういう意味よ」
「悪い意味じゃないよ」
小さく笑いながら、玄がグリムを抱きあげる。
「はい」
恐る恐る、グリムに手を伸ばす。
「顎の辺りを撫でてあげると、喜ぶから」
行き先を修正して、顔の下辺りへ手を伸ばす。そして、ふわりとした毛並みに指先が触れた。間髪いれず、少し力を入れて撫でる。
危惧していた抵抗も特になく、紫乃に撫でられるがままになっている。思わず、口元が緩んだ。
「少し、いいかな」
ある程度時間が経ったところで、玄が声を上げる。グリムを撫でるのを止め、玄へ視線を移した。
紫乃が手を離してすぐ、玄はグリムを地面に下ろす。
「あら、帰るの?」
「僕はね。ただ、グリムは置いていくから、足を拭いて中にいれるなり、このままここで撫でるなり、好きにすればいいよ。たぶん、夕方になったらふらっといなくなるけど。その時は、僕に連絡してくれれば」
疑問を視線に乗せて、グリムへ向ける。その視線に気づいているのかいないのか、グリムは我関せず、と言った様子で別のところを見ている。
「わたしは、あなたへの連絡方法なんてないわよ?」
「あ、そっか。じゃあこれ、僕の電話番号、とメールアドレス」
ポケットから取り出した携帯の画面に表示した番号と英単語の羅列を見せてくる。慌ててそれを近くのメモ用紙に書き写し、確認した。
「それじゃあ、これに電話すればあなたに繋がるのね」
「うん。それではミストレス、また明日」
大仰に一礼して見せた玄は、玄関扉を出て行く。
一匹残されたグリムの足を、持ってこさせた雑巾で拭き、見様見真似で抱き上げる。部屋に連れて行き、思う存分撫で回すのだ。
玄が言い残した通り、夕方、西の空が赤くなる頃にグリムは窓から出て行った。慌てて追いかけ、門を開けてやる。
一声残して、すぐに路地へと消えて行った。




