第8話 図面の端に、あなたの名前
男は、机の向こうで立ち上がろうとした。
「座ったままで」
俺が言うのと、同席していた会社の担当者が手を出すのが同時だった。
男は二人の顔を順に見て、観念したように椅子へ戻った。作業着ではなく、襟のついた柔らかいシャツを着ている。
「すみません。癖で」
俺は声を知っていた。
図面、と言った、あのかすれた声とはずいぶん違う。それでも、目を開けて防水ケースを探した人だとすぐにわかった。
「榎本航です。あのときは、本当にありがとうございました」
管理事務所の面談室。机の上には、昨日見せてもらったものと同じ形式の図面が広げられていた。
俺は椅子へ座る前に、頭を下げた。
「三枝朔です。起きて話せて、よかったです」
「はい。今日は外来の帰りなんです。まだ現場には出られませんが、少しなら座っていられるので」
榎本さんはそう言って、自分の背中と椅子のあいだへ薄い上着を挟んだ。
「昨日は、こちらの社員だと気づかなくて」
「会社名は、よくある長さですからね。腕章に全部は入らない」
榎本さんは自分の左腕を見た。今日は腕章がない。
担当者が、現地での記録は管理側から確認している、と補足した。
「榎本から礼を言いたいとは聞いていました。ただ、それで仕事を作ったわけではありません。試用の内容は、昨日お話しした通りです」
「はい。そのつもりで来ました」
榎本さんは、防水ケースから一枚の紙を抜いた。
角が水で波打っている。表面には、後から書き込まれた細い線がいくつもあった。
「これを、一緒に上げてもらったんですね」
「胸のところに。ずっと、気にしていたので」
「そうでしたか。あまり覚えていなくて」
指が、図面の端で止まった。
細かな数字の脇に、手書きで三つの名字がある。俺はそれを読まないよう、視線を横へ逃がした。
「そこを通る班です。現地で、帰りの道が一本使えなくなっていたので、別の入口へ回すつもりでした」
榎本さんが説明する。
意識が薄れるなかでも、男が所在を確かめようとした図面。仕事を放っておけない人なのだと思った。
確かに仕事だった。ただ、その線の先には、戻ってくる人がいた。
「その方たちは?」
「別の連絡が間に合いました。全員、帰っています」
俺は知らずに止めていた息を吐いた。
榎本さんが、それに気づいたように笑った。
「図面がないと誰も帰れない、というほど、立派なものじゃないです。ただ、私が確認した道が、まだ誰にも渡っていなかったので」
机に置かれた紙の端は、うねって少し浮いている。榎本さんが掌で押さえ、離すと、また浮いた。
「癖がついてしまいましたね」
「重しを置きますか」
「お願いします」
俺は机のペン立てを借りた。紙は素直に平らになった。
担当者が新しい作業用紙をその隣へ置いた。
第二層の認可調査路。今度の範囲は、普段の採集路へつながる枝の手前までだ。旧資料では線の太さだけで表されていた道に、現在の幅と歩行時間を添える。
「正式な測量は同行員が行います。三枝さんには、戻るときに荷と人が引っかかる場所を記録してほしい」
俺は、昨日書いた見本を出した。
踊り場に人を描いたところを、榎本さんが見た。
「この丸は?」
「ここへ一人座ると、残りの人が通れるかを見たいんです。疲れた人を休ませたつもりで、道をふさぐことがあるので」
「なるほど。じゃあ、休憩候補は別の印にしましょう。通路幅と混ざらないように」
隣から、担当者が印刷済みの凡例を出した。休止箇所に使える印がもう決まっている。
ペンで印を直すと、榎本さんが紙を自分のほうへ回した。
「これなら、逆から見てもわかります」
帰り道の図面なのに、俺は行く向きだけで描いていた。
その指摘がありがたく、少し悔しかった。
日当は一万八千円、認められた経費は別。記録の提出と確認後、決まった日に支払われる。担当するのは一日の一経路だけで、現場の変化があれば中止して報告する。
条件を読み、俺は署名した。
字が必要以上に大きくなって、最後の一画が枠へ近づく。
用紙の下には『一般配信なし』とある。仕事で撮る写真と、チャンネルに出す動画は別だ。確認を終えると、榎本さんが班員の名前のある図面を裏返した。
その手つきを見て、俺も自分の控えを鞄へ収める。
「明後日、これを持って現場へ来てください」
担当者の言葉に頷いた。礼を言うために呼ばれたのではない。仕事を一つ、任されたのだった。
◆
面談のあと、担当者が次の電話で席を外した。
榎本さんは携帯電話の写真を一枚見せてくれた。木の箱に丸い穴が二つ開いている。古いスピーカーらしい。
「しばらく家にいると、こういう途中のものばかり目に入るんです」
「直してるんですか」
「ええ。音が片方だけ小さくて。家族には、片方だけなら静かでいいと言われました」
俺は少し笑った。
榎本さんは写真を閉じ、それから、もう一人の方はどうされていますか、と尋ねた。
「小春さんですね。地上で写真を整理しています。足はまだ固定したままです」
「そうですか。私の頭を支えてくれていたと聞きました。後で、直接お礼を言いたいんですが」
「連絡を受けてもいいか、聞いてみます」
「お願いします。急がなくていいです。二人とも、まだ予定通りには動けないでしょうから」
そう言って、彼は机から離れる前に一度だけ目を閉じた。痛みをやり過ごしているのか、俺にはわからない。
聞くと、少し休めば大丈夫です、と返ってきた。俺は急いで椅子を引いたりせず、空いたコップへ水を足した。
「道も、人も、前と同じだと思わないほうがいいですね」
榎本さんは水を一口飲んでから、図面の何も書かれていない端を指した。
「このへんも、古い図には線があるんですが、今の資料では位置がはっきりしない。今回は、その手前までです。わからない先へ、無理に延ばさないでください」
「帰ってきたところまで、書きます」
俺が答えると、榎本さんはゆっくりうなずいた。
「そういう地図が欲しいんです。誰かがちゃんと、戻ってきたやつが」
俺は図面の端に、今回の調査が終わる位置を記した。その先は空白のまま、控えを重ねた。
担当者が戻り、榎本さんを車まで送るという。
俺は椅子から立ち、出入り口の荷物を避けた。榎本さんは、さっきより慎重に立ち上がる。今度は誰も、急がせなかった。
「明後日、よろしくお願いします」
仕事の挨拶をすると、榎本さんも同じ言葉を返した。
助けたときには、名前さえ呼べなかった人だった。
その人が使う図面に、これから俺の歩いた線が加わる。
受け取った契約の控えを折らずにしまい、俺は管理口の灯りを見てから外へ出た。




