第7話 戻る道には、値札がない
新しい靴は、棚の上で俺を待っていた。
正確には、払える人間を待っていた。
装備店の値札を裏返し、見間違いでないことを確かめて戻す。いま履いている靴の先は、乾いた泥で白くなっている。底はまだ使える。面談へ行くためだけに買い替える理由はない。
「中敷きなら、こっちですよ」
店員に声をかけられ、俺は足を引っ込めた。
買わずに帰る客だと責める声音ではなかった。差し出された薄い中敷きを持つと、へたった自分の靴底の感触がよくわかった。
「履いてみても?」
「もちろん。端は、ご自分で切って合わせられます」
店の椅子で片方だけ取り替える。足の下が、少しだけ平らになった。
その小ささが、今の財布にはちょうどよかった。
会計を済ませ、領収書は今度こそ透明袋へ入れた。まだ仕事を取ってもいないのに、準備だけ上手くなっていく。
調査会社の事務所は、駅から十分ほど歩いた雑居ビルにあった。玄関のマットへ靴を置くと、泥の白さが気になる。
受付で名乗り、椅子に座った。
隣には、同じ募集の印刷を持った人がいた。折り畳んだ測量棒を膝の横に置いている。壁の資格一覧を見て、俺は自分の応募書類をもう一度開いた。
救助協力員。帰還術師。現地経路確認。
測量技術員、という文字はない。
受付の奥から呼ばれ、俺は書類を閉じた。
「三枝さん。どうぞ」
通された部屋には、折り目で厚くなった図面が積まれていた。面談担当は、そのうち一枚をよけて机を空けた。
挨拶が済むと、まず直近の仕事を聞かれた。
俺は旧第四層の空洞での救助を説明した。地図と映像の違いに気づいたこと、別の経路を使って下りたこと。先日の二層の出動についても、患者を特定しない範囲で話す。
担当者はうなずき、何行かを書き留めた。
「その記録は、管理側から確認できています。助かったと聞きました」
「ありがとうございます」
「では、うちが明日、三枝さんに頼める仕事は何でしょう」
俺は、もう一度救助の話をしかけた。
担当者の鉛筆は、紙から離れたままだった。
「事故が起きたときは、負傷者を……」
「事故のない日に頼みたいんです」
言葉は厳しくなかった。そのぶん、言い訳の置き場所がない。
俺は膝の上で、両手を組み直した。
事故がない日の俺。
クランでは、先に道を歩いた。休憩できる棚を探し、担げそうにない曲がり角を覚えた。討伐班が先へ進む前に、帰りの距離を数えた。
それを履歴書にすると、ひどく短かった。
「歩いて、戻るための記録を取れます」
机の図面へ視線を落とす。担当者が、見て構わないと言った。
「たとえば、この曲がり角。図面上は通れますが、荷を持って曲がれるかはわかりません。床の傾きも、人を支えながらだと違います。所要時間と、休める場所も記録します」
「測量値は出せますか」
「正式な測量は、資格のある方にお願いします。俺が出せるのは、現地で歩いた記録と、搬送を考えたときに引っかかる点です」
担当者は鉛筆を戻して、図面の細い線をなぞる。
「測量器を持つ人間はいます。ただ、荷を運ぶ側の記録が、あとになりがちなんです」
「帰還で戻れるなら、一日の調査本数は増えますか」
「行きは同じだけ歩きます。帰りを短くできる場面はありますが、一緒に入る方全員をまとめては運べません」
「人数ぶん往復だと?」
「もう一度、迎えに歩きます。普通に歩いて帰れる人なら、そのほうが早いこともあります」
担当者は短く笑った。
「魔術で工数が半分、と書かなくてよかった」
「書かれると、翌日から俺の脚が二倍必要になります」
「脚の追加は、経費で認めにくいですね」
少しだけ、部屋の空気がほどけた。
だが、そのあと差し出された予定表には、別の応募者の面談枠も並んでいた。帰還術師だから、席が一つ空くわけではない。
「週の半分をお願いするには、記録を見てからになります。報告書の見本はありますか」
「個人情報を除いた出動記録なら、提示の許可を取れます。ただ、今回の仕事と同じ形式ではありません」
「そうですね」
俺は机の端を見た。
日当を下げます、と言えば、もう少し簡単になる気がした。仕事がないことを考えれば、安くても入ったほうがいい。
口を開きかけたところで、店員に渡された中敷きの感触を思い出した。
靴を半額にする代わりに、底を半分抜くわけにはいかない。
「一日だけ、担当を絞って試してもらえませんか」
担当者の顔を見て言った。
「第二層の、認可されている経路一つ。同行の方に記録の形式を見てもらって、合わなければ、そこで終わりにしてください。正式な図面を俺の判断で書き替えることはしません」
担当者は、棚の予定表へ手を伸ばした。
別の紙と照らし合わせるあいだ、部屋の外で電話が鳴った。誰かが、明日の車の台数を尋ねている。
働いている場所の音だった。俺は手を膝から離し、返事を待った。
「三日後なら、護衛をつけた班が出ます。そこの経路確認を一件。条件は明日、管理事務所で詰められますか」
「はい」
「仮の枠です。ここで即採用、ではありません。現地記録の確認と条件の合意までお願いします」
「わかりました」
返事が早すぎたかもしれない。
担当者が、書類を揃えながら少し笑った。
「あと、服は今のようなもので結構です。次は現場靴で来てください」
俺は机の下を見た。
今日は、これでもいちばんまともな靴を選んだつもりだった。
◆
駅へ向かう途中、公園のベンチで面談のメモを開いた。
第二層の一経路。歩いた時間と、荷を持つ人が困る場所を記録する。
さっきまで口に出せなかった仕事が、今は二行で書ける。まだ契約は決まっていない。それでも、『事故が起きたら役に立てます』としか言えなかったときより、次に用意するものがはっきりしていた。
報告書の見本。まず、それを作ろう。
携帯電話に、小春さんから写真が届いていた。
押し葉が白い紙の中央に置かれ、その脇に小さく撮影日が入っている。『影のお仕事、ありがとうございました』と添えてあった。
俺は『本業も一日だけ、見てもらえることになりました』と返した。
すぐに返事を期待せず、電話をしまう。
帰宅して、玄関に新聞紙を敷いた。
ブラシで泥を落とすと、靴先に元の色が戻った。擦れたところは戻らない。縫い目を確かめ、緩んだ紐を抜いて洗う。
両方を磨き終え、届いていた記録用紙を開いた。階段の踊り場を描き、人が立つ位置を丸で足す。昨日までただの折れ線だった道が、少し狭く見えた。
その下に、数字を測ってから書き直す、と添えた。
調査会社から、明日の面談の場所と時間が送られてきた。
文面の最後で、指が止まる。
『現地記録を知る社員も同席します』
誰が来るのだろう。どの記録を、見ているのだろう。
俺は書きかけの用紙と、洗った靴を見比べてから、出席の返事を送った。




